経験した人種差別

 最近は参政党の「日本人ファースト」でわかるように、在日外国人が主な対象とされるようだが、日本における人種差別などがまた強くなってきた様だが、差別の歴史は古い。

 すでに、江戸時代から士農工商の身分制で、それからはみだした、それ以下の身分とされた人たちで、村社会から離れた決められた場所で暮らしていた人達がおり、部落民とか賎民と呼ばれていた。

 社会的に、人間社会から追い出された様な扱いで、よつ、穢多、非人などと蔑まれ、死んだ馬や牛の処理などをさせられていたので、革製品や靴、下駄などを扱う人が多く、村社会から離れて部落を作って暮らしていた。

 そんなことから一般の人たちの部落民に対する疎外感が強く、戦後になっても、同和問題として長く差別も続いた。まだ子供の頃から何か得体の知れないものとされ、それとなく近づかない様に言われていた様である。同和問題が前面に出て、広く知られる様になってからも、人々の偏見はなかなか抜けず、部落民のかくれた名簿が作成されたりし、部落民に対する偏見は今なお強く残っている様である。時代が変わっても、こういう偏見はなかなか抜けないものの様である。

 次は朝鮮人に対する偏見差別である。戦前は植民地の人間として、日本では一段低い身分の人とされていた。生活のため日本に来て、どこかで力仕事をしたり、廃品回収や雑多な仕事で生活していた人が多かった。日本人は一段下の人間として見ることが多く、「ちよーせん、チヨーセン」と呼んだり,「鮮人」と言ったりして見下していた。

 朝鮮人には発音しにくい日本語を、朝鮮人の真似をして「五十銭と思って拾ったらビール瓶の蓋で馬鹿みたい」というのを、「コーチ銭コーチ銭ぴろてみたら、ピルピンのプータで馬鹿みたい」などと言ったりして、馬鹿にしたりして、差別も強かった。

 しかし、中学校では朝鮮人の級友もいたが、皆と同じ様な扱いで、特に変わった態度も見られなかったが、モルゲンというあだ名がつけられ、皆と同じ様に過ごしていたが本人がどう思っていたかはわからない。戦後は全く行方がわからなくなった。

 次はアイヌ人である。まだ戦後間もない頃であったが、北海道へ行った時の経験である。アイヌ人についてはそれまで何も知らなかったが、泊まった旅館の近くで泥棒が入り、捕まったそうで、旅館の人が、捕まった男はアイヌではないが、アイヌの血が四分の一入っていると言っているのを聞かされ、アイヌ人に対する偏見を初めて知って驚かされた。

 また、お土産の熊の木彫りをしている立派な髭の男が、「大阪はいい所だった」というので、何処にいたかと問うと「釜ヶ崎」という。それで、なぜ大阪を褒めるのか聞いたら、北海道の故郷では何かにつけて差別されるが、大阪では誰も差別しなかったと言っていたのが忘れられない。

 アメリカでの人種差別については、日本でもよく知られているが、日本人の思うアメリカ人は白人であり、同じアメリカ人でも黒人であれば自分たちよりおとると思っている様で、黒人の子供を連れて歩くと、可哀そうにという目で見られた。また昔アメリカにいた頃は、人種と職業がパラレルなのが嫌だった。医師は白人、ナースは黒人、掃除のおじさんはプエルトリコ人と言ったところであった。また喫茶店に入ろうとしたらWHITE ONLYの札がぶら下がっており、入るのをやめたこともあった。

 こうした差別はなかなかなくなるものであないが、それに乗せられたり、それを利用して、自分たちの政治的力を伸ばすとする輩には注目すべきであろう。