現役で働いている頃には、九十七歳の誕生日を迎えるなど、考えたこともなかった。間欠性破行とコロナで仕事を辞めてからでも、もう5年になる。突然、免疫性血小板減少性紫斑病で入院させられた時も、コロナで面会謝絶と聞いて、もうここまで生きて来たのだから、たとえ死んでも、折角やってくる孫たちと会うことの方が大事だと、事故退院させて貰ったのだった。それからでももう2年以上経つ。
振り返ってみれば、長いようで短いような一生であった。このブログにも思い出を多々書いてきたが、子供の頃の頃のことも、思い出せばついこの間のことのような気がする。しかし、何と言っても、私の人生で最も大きかった出来事はあの戦争である。
私にとっては戦争といえばあの戦争しかない。青春、真っ只中を戦争が貫いていた。物心もつかない頃から、満州事変や支那事変、ノモンハン事変、太平洋戦争とずっと戦争の中で育ち、紀元2600年、大日本帝国、万世一系の天皇陛下、すめらみこと、現人神、君に忠、親に孝の教育勅語、東洋平和、満蒙開拓、鬼畜米英、天佑神助、神風など、たたみ込まれた言葉も多い。
盧溝橋事件から始まって、南京占領、武漢三鎮、重慶渡洋爆撃、援蒋道路、仏印進駐、ノモンハン事件などもあり、支那事変の遷延、日米交渉停滞から、いよいよ真珠湾攻撃となり、マレー沖海戦、シンガポールが昭南に、ミッドウエイ海戦、ラバウル航空隊、アツツ島玉砕、ガダルカナル転進、などに続き、硫黄島、サイパン陥落、フイリピンの戦争敗北から沖縄戦、遂には「最後の決戦、最後の決戦」と本土決戦も間近となり、国中、焼け野が原のところへ、広島、長崎への原爆投下、そして、とうとう8月15日の敗戦となった。
3月13日の大阪大空襲、暗黒の空から降ってくる焼夷弾の無数の光。瞬く間のあたり一面の火の海。「ピカッ・ドーン」そのままの衝撃に続いて見た巨大な広島の原子雲、燐の燃えるような焼け跡の匂いなど、昨日のことのように忘れられない。
何も知らない少年は戦争のために、中学校は3年生でおしまい、貯水槽掘りに続いて、4年生は工場動員で、勉強なしで4年で卒業。海軍兵学校へ行ったが、軍艦がないので、陸戦の訓練、敵の戦車に弾薬を持って突っ込み自爆する訓練までまでして、天皇陛下のために死ぬと覚悟していたのに、敗戦。戦争が終われば、人々の態度は急変。鬼畜米英など一辺に吹き飛んで、皆が生きるだけで精一杯の悲惨な戦後。
山河は変わらずそのままなのに、人の世界は急変。新しい世界に溶け込むのに、どれだけ時間がかかったことであろうか。時代の急変について行けず、高等学校へ行ったが、その3年間は勉強は手につかず、ただ茫然と過ごしただけであった。人類もいつかは滅ぶもの、生きる価値のない世界におさらばしようと思ったこともあった。
ようやくそれを乗り越えて医師になり、あたふたしている間に、いつしか定年、産業医として余生を過ごす間に、はや九十歳を過ぎてしまった。心筋梗塞や間欠性破行の病歴と、免疫性血小板減少症性紫斑病の薬を続けている以外は元気だが、年齢による体の衰えは隠せない。
それでも毎日が何とか無事に過ごせ、女房と娘が面倒を見てくれ、誕生祝いまでしてくれるというのだから、生きていて良かったと思わないわけには行かない。
来年の正月には白寿の祝いが待っている。もういつ死んでも良いと思っているが、出来ればそこまで行ってみるか?