近頃は医者になろうとしたら大変で、頭が良くて、経済的にも恵まれていないと、なかなか医者になるのも難しいようだが、私の場合は、まだ戦後の混乱が残っていた世の中だった事もあり、他に選択肢がなかったので医者になったようなものである。
1928年に生まれ、”神がかり”な旧大日本帝国の、あの戦争の時代の中で育ち、何より忠君愛国を叩き込まれ、恐れ多い”現人神”の天皇陛下のためには、”臣下”の命は鴻毛よりも軽く、御国ために殉ずるのが当然と言われた中で、”純粋培養”されたかのように育った私は、戦争末期には最後の海軍兵学校生徒となり、本気で死ぬ気でいたので、突然の敗戦に私の命もこれで終わりかと思われた。
戦後の混乱の中で、それまでの自分の全てを否定されて、世の急激な変化についていけず、旧制高校に入ったものの、勉強どころでなく、今で言えばPTS Dとでもいうところか、「どうせ人類もいつかは滅びてしまうものだ、こんな嫌な世の中に生きていても仕方がないのではないか」と、誰彼に議論をふっかけたり、本気で自殺を考えたりもしたものであった。
そんなところから、自分の心の動きや夢など、心理的、精神的なことに関心を持つようになるとともに、時間を経て、ようやく敗戦後の民主主義に目覚め、社会主義、共産主義に必死にしがみついたものであった。
ところが時が経つと、そういった議論をしたり一緒に騒いでいた先輩や仲間達が大学を終えると、皆がそそくさと就職して「会社人間」になっていくではないか。再び裏切られたような感じがして、それなら自分はどうすれば良いのだろうか、どう生きるべきかわからなかった。
子供の時の憧れだった建築家の夢もその時にはあまり浮かばなかった。資本家に貢献するようなサラリーマンにだけにはなりたくない。そうかといって、戦後の混乱の続く中を一人で生きていく当てもない。
商売人は出来そうにないし、一人でも生きて行けそうなのは医者か先生ぐらいしかないことになる。先生はそれまでの印象があまり良くなかったので、残っているのは医者ぐらいしかない。幸い高校が理科乙類でドイツ語必須であった。それなら精神科の医者にでもなるかと思ったのが医学部へ行くきっかけだったのであった。
そんなわけで、医者になって人助けしようなどという高尚な目標ではなく、むしろ、自分を救うために精神科の医師になろうと考えたのであった。その後、実際に精神科でなく内科になったのは、再び道を誤らないためには、視野の狭い専門家にだけはなるまい。広い視野を持ち続けたいという心の要望から内科を目指すことに変わっていったのである。
時代が時代であった。生きるだけで精一杯であった。難しい世の中で難しい選択をしたが、混乱した世の中だったので、入学試験その他で苦労した覚えはない。親兄弟にも親戚にも誰も医者はおらず、母も医者嫌いだったのに、ひょんなことから医者になってしまったといった感じであった。