アメリカと私(4) アメリカ留学

 敗戦により物だけでなく、精神的な面まで、過去を全て否定され、神も仏もないニヒリズムに落ち込んだことについてはすでに書いているが、そこから脱却出来るまでには随分時間がかかった。

 1952年4月にサンフランシスコ条約が結ばれ、アメリカ軍の占領が終わり、形だけは日本は独立したが、日米安保条約で依然としてアメリカの従属国であり、1950年に始まった朝鮮戦争が1953年7月休戦協定が結ばれるまでは、米軍の後方基地としての役割を負わされたが、それをきっかけに日本の資本主義の復活が始まった。

 その頃までには、私も漸く戦後の虚無から幾分這い出していて、民主主義を生きる中心に据えてきたが、アメリカの支配、朝鮮戦争への加担などを経験し、新憲法による平和主義を無視した、逆コースと言われた日本のアメリカ従属の下での再軍備に反対していた。そこへ起こってきた1955年11月からのベトナム戦争をでは、世界の潮流としても、アメリカの帝国主義、資本主義に反対し、マルクス・レーニン主義を学び、当時盛んになった反戦運動に共鳴していた。

 そんな中では、民主主義や社会主義を話し合った友人たちが大学を出ると揃っていそいそと大会社に就職し、企業戦士になっていくのにも、何か裏切られた感じがしたものであった。

 そんな中で突然に起こったのが、アメリカへの留学の話であった。博士論文も出来、大学院を修了することになっていたので、私が一番の適格者だったのである。それを聞いて、あまり気乗りはしなかったのだが、折角の機会だから、アメリカがどんな所かをこの目で見てみるのも悪くないではないかと考えて受けることにした。

 唯、今とは違って、日本はまだ三等国と言われていた敗戦国である。まだ貧しかった日本は、当時の為替レートは1ドル360円に固定されており、海外へ行く場合にも、ドルは300ドルしかを持ち出せなかった。日本航空アメリカへ行き始めていたが、自費で行くには、飛行機は贅沢品で無理、太平洋横断の貨客船に乗せてもらい、10日以上もかけて行くよりなかった。

 それに長女が生まれて1年足らず、しかもツベルクリン反応が陽性になったこともあり、家族連れで行くのを諦めて、自分一人で行き、後から女房がやって来るような段取りに変えざるを得なかった。

 それ以後の経緯や、アメリカでの仕事や生活、アメリカでの観察結果などについては既にこのブログでも過去にあちこちで書いているので省略することとするが、当時のアメリカは”The Best Years Of My Life ”と言う映画があったぐらいの言わばアメリカの最盛期でもあり、物質的な豊かさや、多様性には驚かされたが、人種差別や、上から目線の博愛などに、こんな国にはなって欲しくないなあとも思わされたものであった。