昭和百年

 今年は昭和百年に当たる様である。1928年、昭和3年生まれの私は、この昭和100年を略フルに生きたわけで、私の一生とも言える。100年の間には色々な事があったが、どうしても伝えたいことは、やはり前半の戦争や敗戦にまつわることである。

 昭和は大変動の時代であった。私が生まれてから成長し、戦争に負けるまでの日本はひどい国であった。天皇という現人神が国を代表し、皇国、神国と言われ、国民の命は鴻毛より軽く、何よりも「君に忠」が優先し、天皇陛下のためには命を捧げるべきだと教えられた。教育勅語や124代の皇統を暗記させられ、中国への侵略戦争も太平洋戦争も、八紘一宇、国のため、東洋平和のためだと聞かされた。それに違を唱える者に対する弾圧も酷かった。

 そんな時代の日本で、まるで純粋培養されたように育てられた私は、それ以外のことは何も知らない愛国少年として成長し、忠君愛国の歴史を学び、戦争末期の中学校を卒業するや、必勝を祈願して、国のため天皇陛下のために尽くさんと、海軍兵学校へ入学した。ところが当時は最早、日本の敗色は濃厚、呉の空襲で日本の軍艦はほぼ壊滅、広島の原爆をも経験し、最後は本土決戦で、軍人として死ぬ覚悟までした。

 ところが、8月15日の玉音放送で敗戦、軍隊の消滅、占領軍がやって来て、崩壊した国の飢餓社会に放り出され、どうして良いか分からなかった。それまでの自分の全存在が否定され、路頭に迷った。どうすべきかは誰も教えてくれなかった。遂に神風も吹かず、神にも仏にも見放された身には、信ずべき何ものもなかった。「国破れて山河あり」をつくづく感じさせられたものであった。

 戦争のために中学、高校の教育もまともに受けられず、亡然自失、虚無の世界に陥った私は、他人に議論を吹きかけては虚無を深め、人類の未来に悲観し、命を断つことさえ考えた。自殺した友人もいた。戦争の被害は物質的なものだけでない。それより精神的なものの方が大きかった。心の拠り所がなくては生きていけない。かろうじて辿り着いたのが民主主義であったが、根底に染み付いたニヒリズムの消えることはなかった。

 占領軍がジープで走り回り、日本人は精神年齢は12歳、3等国民と馬鹿にされ、工場施設は中国へ持ってけ行けばとも言われたが、占領軍とともに来た戦後処理の理想的民主主義者による政治改革、中でも平和主義の新憲法の提案、発布のあったことも忘れられない。

 そこに起こったのが、朝鮮戦争の勃発であった。後方基地とされた日本は弾薬などを作って支援させられたが、それを手掛かりに戦後の復興を成し遂げたのでもあった。ただし、その時以来、出来たばかりの新憲法との矛盾を広げるばかりの歴史を刻まざるを得なくなってしまったのでもあった。

 それでも、まだ1960年頃までは、学校における民主主義教育も進められ、あの大規模な安保条約反対闘争も行われたが、産業の復興とともに、資本主義経済の再興、会社人間が養成され、資本家の勢力が強くなり、民主勢力の後退、軍国主義の復活、高度成長時代になっていったのである。

 丁度その頃、1961年から1963年にかけて私はアメリカに留学したが、当時はまだアメリカにいる日本人は少なく、”JAP”という蔑称も残っており、中国人やフィリピン人に間違われたりしたが、アメリカ資本主義社会のスケールや豪華さに圧倒されながらも、人種差別や白人達の優越感、哀れみを含んだ博愛に反発したものであった。

 日本からの輸出も始まりかけていたが、日本製は安物が常識であった。ある時ボスが安物のボールペンを見せて、日本製だろうと言ったらmade in USAと書かれていた様なこともあった。

 その後の高度経済成長、バブル崩壊、それに続く失われた30年などの中での生活については長くなるので割愛するが、その間、医師をしていたお蔭で、何とか切り抜けて来られた。気がつけば、もう90歳を超えており、病気やコロナの流行などもあり、以後は隠居生活を送っている。

 これが私の昭和百年の人生であるが、戦争の記憶は今なお消えることがない。戦争には絶対反対である。攻撃用のポンコツミサイルなどを買うのをやめて、国民の生活向上に回して欲しいものである。