手塚治虫と私

 手塚治虫氏は本名手塚治で、私の中学時代、大阪府立北野中学(現在の北野高校)の同級生であった。ただし、同じクラスになったことがないので、仲の良い友達ということはなかった。彼は子供の頃から漫画を描いていて、学校でも休み時間などに、黒板にもよく漫画を描いていたり、昆虫の絵を見せたりしていて、少なくとも同じ学年なら知らないものがいなかったのではなかろうか。

 休憩時間にクラスの黒板に漫画を描いていて、授業開始のベルがなっても気づかず、入ってきた数学の先生に「手塚。お前は漫画家になるのか」と言われたこともあった。当時は戦争中だったこともあり、軍艦の上に主人公が乗っている漫画などを描いていたが、よく出てくる登場人物には、後にもよく出てきた「ヒゲ親父」などもいた。

 彼は漫画だけでなく、昆虫類の精密画も得意で、まるでその頃流行していた昆虫採集で集めて昆虫標本のような、精密な昆虫画を並べた絵などをよく見せてくれた。昆虫が好きだったので自分の名前にも虫を加えて手塚治虫としたようである。普通の風景画などを描かせても、人並外れていたので、絵の岡島先生も「手塚は絵の天才だね」と褒めていた。

 学歴が大阪大学となっているが、中学を敗戦の年の3月に出た後、私は海軍兵学校へ行き、彼はその頃あった大学付属の医学専門部へ行ったので、同じ大阪大学卒業と言っても、全く別で、時期もずれているし、付き合いもなかった。彼は後に奈良医大の解剖学教室で学位を取っている。

 戦後の彼との付き合いは、まだ戦後間もない頃、他の友人のスクーターに乗せて貰って、彼の宝塚の家に行った記憶があるが、その頃から新聞に4コマ漫画を載せたりしていた。しかし、早くから東京へ根拠を移してしまったので、後はクラス会で会うぐらいのこととなった。

 それから随分後のことになるが、鉄腕アトムがテレビで流されるようになった頃、私の娘が見よう見真似で自分なりに鉄腕アトムの歌をピアノで弾いているのを聴いて、音楽とはこういう音から入っていくものだなあと感心させられたことがあった。

 もう一つ手塚治についての思い出は、私がベレー帽を被って天王寺美術館の前庭あたりを歩いていた時、見知らぬ青年が向こうから私を見て「手塚先生だぁ」と声をあげて近づいて来て

びっくりさせられたことがあった。年は同じだし、背丈もそこそこ似たようなもの、ベレー帽を被っていたし、眼鏡もかけていた、服装も似ていたのであろうか。こちらが驚かされたが、近くへ来たその青年に同級生だったことなども説明してやったことがあった。

 彼は早く六十歳で亡くなってしまったし、私ももう九十七歳になる。もう全て遠い昔の思い出になってしまった。