子供の頃のアメリカ

 戦前の日本では一般には外国といえば、ヨーロッパかアメリカであり、今ほど外国との交流も無かったが、太平洋の向こう側の国であり、日本郵船や大阪商船の定期航路もあったためかも知れないが、少なくとも私の周辺では、外国と言えば先ずはアメリカを指し、外国人と言えばアメリカ人のことが多かった。

 当時、流行って今でも覚えている歌がある。昭和2年に出来た歌らしいが、少し違っているかも知れないが、「青い目をしたお人形はアメリカ生まれのセルロイド。日本の港に着いた時、涙をいっぱい浮かべてた。私は言葉がわからない、迷子のなったら何としょう。優しい日本の嬢ちゃんよ、優しく遊んでやっとくれ」と言ったような歌で、これから見てもアメリカは憧れの国であった。

 私の母の実家が貿易商をしていたので、母や祖母を通じてアメリカの話を聞く機会もあり、家にはニューヨークの摩天楼の続くマンハッタンの絵葉書があったし、ほうれん草を食べると強くなるポパイや、ディズニーのミッキーマウスの漫画、背の高いのと太っちょのローレル・ハーディのコンビやチャップリンなどの映画などを見て、未知の世界に憧れ、いつかは行けたらいいなあみと思っていたのであった。

 伯父がアメリカへ行く時には、祖母が「ホールドアップにあったらちゃんと手をあげて何でもあげなさいよ」というよなことを言っていたのを聞いたこともあった。また身辺の世話のために連れて行った女中が帰国して英語を喋るのを聞いて、母は「英語を覚えるのなど簡単よ。あの女中でもすぐ覚えて帰って来たのだから。アメリカへ行って住みさえすればすぐに覚えられるよ」などと言っていたこともあった。

 こうしてアメリカは憧れの国であったが、一方で日中戦争が長引き、次第に泥沼化するとともに、次第に東洋平和のためならばとか、満蒙開拓、満洲国の建設から日独伊枢軸などが言われるようになってきて、次第に世は戦争ムードになってきた。ただし、日本の向かう主な敵は大陸の果てのソ連で、無敵関東軍がそれにあたる主役のように言われていた。

 ところが中国侵略に対する米英などの援蒋活動、アメリカの石油や屑鉄などの経済制裁、それにノモンハン事件による関東軍の大敗などを通じて、いつしか日本の主敵がソ連から米英に移り、石油確保などを目指して、冒険的な日米の太平洋戦争となって行ったのである。

 アメリカのことについては多くの人よりはよく知っていた祖母は「あんな大きな国と戦争して何が勝てるもんかね」と言っていたが、大日本帝国に純粋培養されてすっかり国粋主義に育った私は、心から国のため、天皇陛下のためには死んでも良いと思っていたので「婆さん何を言っているのか」と心の中で反発したものであった。

 それでも、中国でさえ持て余しているのに、その上、よもやあんなに夢のように大きな国と本当に戦争するのか考えにくかったのであった。