戦前、まだ私が子供の頃は 朝鮮人がチマ・チョゴリを着て歩いている姿をよく見たものである。普段の姿としては、大抵上に羽織ったチョゴリは白で、下のチマは黒。それに白いゴム製のような朝鮮履を履いていた。
当時は知らなかったが、チマは女性用のスカートのことで、チョゴリは男女どちらにしても上着のことらしいが、ことに男性は普通のシャツとズボンといった格好が多かったが、多くの女性は朝鮮服を着ていた。日本人でも男性が洋服姿で、女性が着物姿であったのと同じであった。
しかし、いわゆる「晴れの日」などの時の正装では、女性は派手な色のチマ・チョゴリを着ていた。忘れられないのは、子供の時に見た、何かの儀式にでも行くためだったのであろうか、共に清掃した男女が連れ立って歩いて行くのを見た記憶である。
正確ではないかも知れないが、男性は白っぽいチョゴリに、黒っぽいブカブカのズボンのよなものを履き、背の高いひさしの大きな茶色の帽子を被り、女性は派手なチマ・チョゴリを着ていた。派手な色をした丈の短いチョゴリに、幅広な結び紐のよなものが斜めに下がったのが目につき、下のチマが大きく膨らんでいるいるのが印象的であった。
当時は普段でも朝鮮靴を履いている女性が多く、多くは白黒のいで立ちであったが、こちらが子供だったので目線が下に向くことが多かったせいもあるのか、朝鮮靴が目につき、気になっていた。何と呼ぶのか知らないが、先がとんがり上向に飛び出した白い船型の靴を履いていたのが今も印象深く思い出される。
最近はチマ・チョゴリ姿など先ずお目にかからないが、たまたまSNSを見ていたら、在日コリアンの女性がチマチョゴリを懐かしむ場面に出くわしたので、昔の風景を思い出したのであった。
序でに言えば、私がハングル文字を初めて見たのもその頃であった。今から思えば、衆議院議員の選挙のあった時だったのであろう。当時は幟(のぼり)のような物だった気がするが、おそらく、候補者の名前だったのであろうが、ハングルが書かれているのを見て、初めてハングルにお目にかかったことも思い出す。
また朝鮮人が「アイゴ」「アイゴ」とよく言うで、私も覚えたが、「アイゴ」と言うから勝手に「哀」に結びつけて、悲しい時の言葉とばかり思っていたら、実は日本語で言えば、「あら、まあ」とでもいった感じで、嬉しい時も、悲しい時や辛い時などにも使う感嘆詞のような物らしいことだと聞いて、成程よく聞いたわけだったと思ったこともあった。
当時の日本では、朝鮮が植民地であったこともあり、在日の人々は数多くの偏見にさらされ、場末や人里離れた辺地の掘立小屋に住み、廃品回収重などの社会の底辺で重労働を強いられていたような人たちが多く、大変な生活であったであろうが、子供達は案外偏見などもなく、名前も多く日本名を名乗っていたので、区別することもなく、同じ仲間として遊んだり、はしゃいだりしていたものであった。
もちろん大人の偏見の影響を受け、「チョーセン」とか「鮮人」と言ったり、朝鮮人は濁音の発音が苦手なので、五十銭をコーチせんと言ってからかったようなこともあった。
戦後ははすっかり様子が変わってしまったが、それでも表面には出ない偏見が今なお続いているのが悲しい。
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