新聞の広告欄を見ていたら、黒井千次著「老の深み」と言う本の広告に、「九十代の大台へと足を踏み入れた作家に見えてきた風景として、次第に縮む散歩の距離、抜け落ちる『暗証番号』、勝手に転がり去る錠剤、少量の液体にむせ、なんでもない一歩によろけ」などとあまりにも自分と重なり、興味が湧いたので本屋で一冊求めてきた。
著者は丁度90歳になったぐらいらしく、私より6〜7歳は若いようだが、散歩の距離が短くなったなあと嘆いているところで愚痴ったり、何でもないのにむせたり、よろけたりと同じようなことをしているようである。広告を見るとシリーズで、「老のかたち」「老の味わい」「老いのゆくえ」などというのも出してられるようである。
早速ページをめくって見ると、面白いことに、最初に隻眼になったことが書かれている。それまで私と同じで、あまりにも似ているのに驚かされた。原因は私の場合には50歳代のストレスによる黄斑の浮腫の結果としての変性であるのに対し、本の著者の方は最近の緑内障によるものと違うが、いずれも双眼で見ていたものが隻眼で見なければならなくなって、戸惑いを感じているのだが、私の方が遥かに先輩なので、隻眼を楽しむ余裕さえあるようである。これまでにこのBlogにも書いたように、見え方の歪みや錯覚を楽しんでさえいるのである。
「居眠りは年寄りの自然」という項もあるが、この人の場合まだ若いので、よくあるように椅子に腰掛けたりしているうちに、うとうと眠るようだが、私の場合には、眠くなる前に体が疲れ、つい横になりたくなるので、夜は長い目に寝ているし、朝食の後、昼食の後にも、少しの間ベッドで横になっているので、最近は椅子に座ったまま眠るようなことは少なくなった気がする。
また、この人はステッキで3本足で歩いているらしいが、私の場合には、もうそれを卒業して、昨年の春からトライウオーカーなる3輪の歩行補助器のお世話になっている。杖より安心して身を任せられるので、もっぱら重宝している。転倒も防げる。
「欠かせぬ<ヨイショ>の掛け声」という所では、椅子などから立ち上がろうとする折に、ヨイショと声を上げなければうまく立てなくなったことが述べられているが、私の場合も、初めは何となしに掛け声をかけているような感じであったが、最近は深いソファーに腰を下ろしていた時などには、よいしょと掛け声をかけても一回では立ち上がれず、二度目三度目で漸く立ち上がれるようなことになってきている。
風呂場で床に尻をついたまま立ち上がれなくなった話、腸管の出血で入院した話、それらに給料袋があった頃とか、老いる風呂釜に連帯感だとか、昔の思い出が出てくるのも当然だし、ごみ収集の知らせで曜日を確かめ、中腰の作業の恐ろしさ、仕事机の前で無為の時間を感じた
かと思えば、散歩に出ると年下の背中を追い越したくなるが、飲み物にむせたり、原稿を書いているうちに万年筆のキャップが床へ落ちたり、散歩に出るのが億劫のなったり、日記帳が隙間だらけ、暗証番号は忘れてしまうが、ネクタイの結び方は指が覚えていてくれるなど、老人に共通した日常の変化に触れ、八十代と九十代の違いに注目している様である。
「必要以上に若く元気でいたいとは思わないが、まだ慌てて店仕舞する気もない」と言っているが、私は91歳の暮れまでは老いの兆候を感じてもまだ薄く、まだ相談事のような仕事もしていたし、行きたい所へは何処へでも出かけていた。Blogにも色々書いてきたが、人によって老いの取り方は様々だが、誰しも同じようなことがそれなりに起こってくるのが興味深い。
私の場合、身体の衰えを感じ行動範囲が狭くなって来たのは、ついこの最近、95歳を過ぎてからのことである。今年の春、コロナワクチンに関係がるのかどうかわからないが、突然、免疫性血小板減少性紫斑病にかかって入院してからのことである。今や著者とどっこいどっこいの様である。
年をとっても嘆くことはない。時間はあるし、人生の最後ぐらい少しは楽しませてもらはなくてはと思っている。