自宅でゆっくり風呂に入る。すっかり体をお湯に沈めて体を伸ばし、全身の力を抜いて、自分の体をゆっくり眺める。
もう若い時のような張りのある体は見られないが、年寄りなりにまあ何とか生きている体がそこにある。だが足の先を見ると。両足共に第4趾、第5趾は内転し隣の趾に押されてその下に押し込まれたような格好になっている。
これまで生きてきた長年月、ほぼ一日中狭い靴の中の閉じ込められていて、親指などの内側の大きな指に押されて、仕方なくその下に潜り込んで、狭い空間で何とか生き延びて来た証拠である。足の指でも母趾や第二趾ぐらいまでは大事にされても、あとは小さく、手の指のように固有の特殊な利用価値もないままに、ただその陰に隠れて何とか生き延びて来たような足趾達である。
しかし、歳をとった今では、もうそんな遠慮や気兼ねは要らない。靴を履かれて長時間、狭い空間に押し込まれることもない。今や殆ど家で過ごす主人は大抵裸足か靴下だけで、第4趾も小趾も、好きなように伸ばしたり広げたりしても良くなったのである。風呂の中で底から少し持ち上がった歪んだ足の指を見て思わず「ご苦労さんだったね、もう好きなようにしても良いのだぞ」と声をかけてやりたくなる。
思わず小指を捕まえて、曲がった骨をこうしたらと真っ直ぐに伸ばしてみたりするが、長年の結果はそんなことぐらいで元の戻るものではない。しかし見れば見る程、過酷な生活を強いて来た罪悪感のようなものが起こり、せめて私が生きている間に、少しぐらい他の指と同じように真っ直ぐになれないものかと思わないではおれない。
最近は風呂の入る度に、両足の第4趾や、小趾をしばらく真直ぐに保持してみたりしている。そんなことをしていると、ふと、日本政府の沖縄に対する不当な圧迫や処置との類似性が思い浮かんで来たりする。長年にわたる政府の沖縄に対する締め付けは、アメリカに支えるために沖縄を犠牲にしているのである。
日本政府もせめてその不当な処置を慮って、何とか解消する努力をしてくれないものかという願いが自然に湧いてくるのを感じながら、今日も風呂の中で両足の4本の指の矯正を試みている次第である。