八月六日は言うまでもなく広島へ原爆が投下された日である。既に何度も書いたことであるが、私の命も残り少なくなって来たし、もう原爆を実際に見た人も少なくなってしまったので、くどいようだがもう一度書いておきたい。
当時私は海軍兵学校の生徒で、広島から南へ約20キロ離れた学校の生徒館にいた。その日は朝から雲ひとつない晴天であった。午前8時からは自習時間で、各分隊の自習室で本を読んいた。自習時間が始まって間もなく、8時15分に全く突然に部屋の窓ガラスにピカッと白い閃光が走った。
何だろうと不思議に思っていたら、やがてドカンと言う地響きがして部屋が揺れた。咄嗟にこれは空襲だと思って、皆で部屋を飛び出し、外へ出た。そこで目にしたのがあの原子雲であった。ムクムクと空高く伸びていった原子雲は生涯忘れることが出来ないものとなった。
これこそ原子爆弾であった。
その時にはまだ広島であのような壮絶な地獄が展開されていることは想像も出来なかった。江田島までは爆風はとどかなかったので、我々には被害はなかった。 戦後、多くの人が原子爆弾のことをピカドンと言っていたが、まさに原爆はピカッと光ってドーンと来たのであった。
この直後は、この爆弾については新型爆弾と言われ、「日本軍が台湾で新たな大型爆弾を使ったので、それと同じようなものではなかろうか」と言う話も聞かされたが、緊急の対策として、すぐに取られたのは、真っ白な布の袋で目の部分だけをくり抜いた袋を皆に配り、「今度空襲があったら、これを被って逃げろ」と言われた。それまでは白色は空からも目立つからと言われ、海軍の夏の白い制服まで、全て国防色に塗り替えられたのに、それどころではないようであった。
やがてその爆弾が原子爆弾であり、広島はこの1発の原子爆弾で全滅だと言うことが分ってきた。七月終わりの呉の空襲で日本の艦隊が殆ど全部沈んでしまった後の、この惨状。もう海軍は全滅である。今後「どうなるのだろうか」と不安に駆られたが、それでも海軍軍人の端くれ。「どうにかなるだろう」としか考えられない。もう後は本土決戦である。”天皇陛下の御為には”「水つく屍」となるまで、最後の決戦で最期まで戦うよりないと思ったものだった。
それから10日足らずで敗戦、「玉音放送」を聞かされ、二十何日かには兵学校は解散、復員ということになった。カッターに分乗して広島の宇品まで曳航され、そこから広島駅まで原爆被災の市街地を隊伍を組んで通り抜けた。
焼け跡は既に大阪で見ていたが、右手に比治山を見ながら何も残ってっていない焼け跡を広島駅まで歩いた。焼け跡には何か異臭が漂っていた。誰かが燐の燃える匂いだと言っていた。また、被災して上半身が赤と白の斑になったような皮膚をした二人が、助け合うようにヨタヨタと歩いていく姿にも出会った。焼け跡に「赤痢が流行っている。生水飲むな」と書いた紙を張りつつけた鉄棒が焼け跡に突き刺されているのも見た。
決定的な敗戦で、何も考えることすら出来ないまま、広島の惨状は私の頭をさらに呆然とさせるだけであった。広島駅から無蓋貨車で大阪まで復員したのだったが、今も忘れぬ広島の原爆の思い出である。戦後長らく、夏空にむくむくと入道雲が湧き立つのを見ると、いつもあの広島の原子雲を思い出し、その入道雲の向こうに帰ることのなかった特攻機が飛び去って行くのが見えるような気がしてならなかったものである。
付け足すと、それからずっと後、アメリカにいた時、原爆の話になって、自分の禿頭も原爆のせいかもと冗談を言ったらアメリカ人が真に受けて同情してくれて困ったこともあった。