はじめて覚えた中国語は「姑娘来来」

 私の子供の頃は日常生活の中に「兵隊」が深く入り込んでいた。小学一年生の国語の本には「ススメススメヘイタイススメ」があったし「今日も学校に行けるのは兵隊さんのおかげです」などと言ったものもあった。大人になる前には、青少年の皆が通らなければならない「徴兵検査」もあった。

 国の標語でも「東洋平和」「富国強兵」などが強調されていたし、街中でも長い軍刀をぶら下げて乗馬用のズボンを履いた将校が肩で風を切って歩いていた。また、兵隊が隊伍を組んで歩いて来て「分隊止まれ」の号令一下、一斉に止まる姿などにも出会ったものである。

 当時の日本は、満蒙開拓、五族共和の満州国、東洋平和などの標語に溢れ、もっぱら中国東北部から蒙古辺りへの進出が叫ばれていた。また、満蒙開拓団と言って多くの農民が大陸に送り込まれたりし、時と共に次第に戦時色が深くなっていっていた。

 その頃よく言われていたのは「兵隊は一銭五厘でいつでも集められるが、(当時は葉書が一銭五厘で、兵隊はその葉書一枚で徴集出来た)馬はそう言うわけにはいかない」と言う話で、個々の兵隊の人権などは考えられず、全てが天皇のために戦う駒に過ぎなかった。鉄砲ひとつでも「天皇陛下から御下賜下さった物だから大切に扱え」と言われた。なお、当時は軍隊といっても、殆どが歩兵で、砲兵や戦車隊などは貧弱であった。

 また、日本の軍隊は補給に重きを置いていなかったので、何でも「現地調達せよ」とされたものであった。戦地で「現地調達」と言えば、当然、占領地で暴行、略奪、強姦、虐殺などが起こると言うことになるわけである。

 更には、占領が長引くと、新たに戦地に派遣された新兵に対しては、現地の下士官が戦争に馴染ませなければと言うことで、近くで行き当たりばったりに無辜の農民などを拉致して来て、杭にくくりつけ、銃剣で突き刺して殺すのを見せたり、実行させたりするような残虐な事さえ行われていた。

 当時の日本はまだ農村社会が基本だったので、兵士も殆どが農村の小学校出の青年であった。こうした出征兵士が任期を終え、村へ帰って来ると、戦地で経験したあまりにも特異な非日常的な経験は、もう他人に話さないではおれなかった。ところが、静かな郊外や田舎では、そう話す相手もいない。必然的に、戦地の様子などを聞きたがって集まって来る子供にまで、自慢話をしたくなるものである。

 帰還兵士は大事にされるし、相手が子供であることもいつしか忘れて、戦地で見たり聞いたりしたことを何でも喋ってしまうことになる。当然、戦地での現地女性に対する暴行や誘惑なども中心話題になる。そんな兵士たちから何と言うこともなしに「クーニャン・ライライ(姑娘・来来)」と言う言葉を覚えてしまったが、それが私にとっての最初に覚えた中国語ということになった。

 当時は、意味もわからず言葉だけが勝手に頭の中に入ってしまったが、後から思えば、子供が体験者からそんな言葉を覚えた背景には、現地で行われていた残虐な行為が実際にあったことの証左であろう。

 また当時は国内の中学校でも軍事訓練が正課として取り入れられており、どの中学校にも配属将校や専属の特務少尉、その補助の古参の兵隊がいて訓練を担当していた。我々の所でも、古参兵が藁人形を用いた銃剣術の授業として、生徒に一人づつそれを銃剣で突き刺させては「そんなやり方では人は殺せん」などと怒鳴ったものであった。

 今では考えられないが、こんな事が真面目に行われていた時代のあったことも忘れてはならない戦争にまつわる子供の頃の思い出である。