また八月がやってくる。子供の頃から八月は特別の月だった。夏休みで海水浴に行ったり、トンボや蝶々、蝉をとるのに夢中になったり、家族で夏休みの旅行を楽しんだりして、特別の月だった。お墓参りもあったし、お祭りもあった。
しかし、あの戦争のおかげで夏休みもすっかり変わってしまった。中学3年生の夏休みには、空襲に備えた貯水槽掘りの勤労動員が始まった。受け持ちの先生が付き添いで、「生徒は土方じゃないのだ。帰ったら勉強しなければならないのだ」と交渉してくれ、大抵、作業を午前中で終えるようにしてくれた。ところが、作業をを終えた中学生たちは「これはしめた」とばかり、昼からは映画館へと走る者が多かった。おかげで、私も一生のうちで一番多くの映画を見た月となった。
それから一年の間は負け戦ばかり。あちこちで、全滅が”玉砕”となり、退却が”転進”と言われ、敵艦をやたらと沈めているはずなのに、どんどん攻め寄せてくる。中学4年の初めからは、学徒動員で学校へは行かず、一日中工場動員だったが、あまり使い物になったとも思えない。
しかし教育とは恐ろしいものである。この国難を乗り切る為には、チビで体力も弱く、運動神経も鈍い自分でも、天皇陛下のため、皇国のため尽くさなければと、親に内緒で海軍兵学校を受験し、合格したのも八月であった。まさか私が軍人になるなど考えてもいなかったであろう父も文句をつけられる時代ではなくなっていた。
その後、年が変われば昭和20年、敗戦の年である。東京、名古屋、大阪、神戸と順にB29による大空襲で、日本の大都市はどこもかしこも焼け野が原となり、私は4月からは最後の海軍兵学校の生徒となった。しかし戦況はますます不利となり、上艦実習も機雷や敵襲を避けて一晩だけと言う哀れさ。
そうした後に7月末の帝国海軍軍艦の壊滅、広島の原爆にもあい、それでも、”天皇陛下の恩為には”本土決戦”で死を覚悟して戦う決意をしたところへの”玉音放送”の衝撃。これは強かった。自分の全てを託していた全世界が崩壊し、全てがなくなってしまったのである。無の世界に落ち込み、いわば虚脱状態であった。
十七歳の軍国少年の末路であった。以来最早八十年にもなろうと言うのに、今だに決して忘れることの出来ない人生のエポックであった。それから立ち直るのに、どれだけかかったことであろうか。今でも私の深層に、ニヒリズムが潜んでいるのをどうすることも出来ない。
八月もお盆を過ぎると、土用波が打ち寄せ、海水浴場も閉ざされ人の姿も失せ、高校野球の決勝戦のサイレンが鳴り、法師蝉が鳴いて焦燥感をせき立てられたものであった。「何をしている、もう夏も終わりだぞ」と。これが私の八月であった。