昭和20年7月の末

 私の誕生日が来るごとに思い出すのが、海軍兵学校にいた1945年(昭和20年)の7月24日、25日の呉軍港や市街への大空襲で、江田島アメリカの艦載機による攻撃を受け、我々生徒たちは防空壕に避難させられていたが、空襲が済んで壕から出て来た時の光景が忘れられない。

 重油がないので、本土決戦に備えてという口実のもとに、湾内には早くから停泊していた巡洋艦利根と当時連合艦隊の旗艦とされていた重巡の大淀がいたし、島の外にも瀬戸内海の複雑に入り込んだ山と海を利用して、あちこちの島影に、古い戦艦をはじめ、多くの軍艦が隠れるように停泊していた。爆撃が済んだというので壕から出て来た時には、大淀も利根も一見したところでは、以前とあまり変わらぬ姿をしていたが、水深が浅いのでそのままのような姿をしながら、両艦とも最早完全に沈没してしまっていたのであった。

 この両艦だけではない。周辺の島蔭に隠れるように停泊していた軍艦たちも、殆ど全て同じ運命になっていた。真珠湾攻撃の成果どころではない。これで帝国海軍の主な軍艦は全て沈んでしまったもののようであった。

 戦艦大和や武蔵の3番手として作られ、途中から航空母艦に艤装替え中だった軍艦天城?だったかも近くにいて、敵の航空機が「松の木が枯れて航空母艦が姿を現した」とビラを撒いていったことがあったのだったが、それががどうなったかのかは聞きそびれた。

 誰が見ても完全な敗北である。しかし、当時の日本、殊にに海軍では、仮定であっても、日本が負けるなどとは口に出して言えることではなかった。それでも現実を見ていたら心配しないではおれない。「どうなるのでしょうか」の返事は「どうにかなるだろう」としか言いようがなかった。沖縄戦が終わってからは、今度こそは「最後に決戦だ」「本土決戦」だと、「最後の決戦、最後の決戦」とやかましく言われるようになった。

 神風が吹いて神国日本が負けることはありえない。それならそれで「おかしなことを言うものだな」。理屈から言えば、「最後の決戦」で日本がアメリカに勝つのであれば、日本軍がアメリカ本土に攻め込まなければならないはずなのにと思わざるを得なかった。

 ただし、海軍といっても、もう軍艦も飛行機も残っていない。あとはアメリカ軍が本土に上陸して「本土決戦」となれば、海軍といえども陸で戦うよりない。訓練でも地雷に見立てた箱を用意して、壺のように掘って穴に潜み、敵の戦車が来たら地雷を持って戦車のキャタピラに飛び込む訓練までさせられた。

 それでも帝国海軍軍人の端くれである。十七歳の少年は真剣に天皇陛下のため皇国日本のために本気で死のうと思っていたのである。もし戦争がもう半年も続いて本土決戦にでもなっていたらほぼ確実の私は死んでいたであろう。

 もう80年も昔のことであるが、今でもその頃の思いははっきりと覚えている。戦争だけは絶対にすべきではない。社会全体が狂気に巻き込まれてしまうものである。