この国の怖さ

 コロナもようやくある程度は落ち着いて来て、政府もwith Coronaなどと言い出し、旅行の補助なども始まっているようだが、まだ街では殆どの人がマスク姿のままである。

 アメリカにいる孫たちのinstagramなど見ていると、もう早くからマスクなしでお互いにくっついて喋ったり、叫んだりしていて、誰一人マスクをしている人などいない。アメリカの方がもう集団免疫が出来上がってしまっているのかも知れないが、あれで本当に大丈夫なのかと心配するのだが、そんな声は届きそうにもない。

 翻って日本を見ると、我が家の近くでも、駅へ向かう通勤客を初め、道行く人は一人残らずと言って良いぐらい皆マスクを着用している、日本人は真面目に世間の約束事を守り過ぎるもののようである。先日新聞に、子供が祖母に「どうしてみんなマスクをするの」と尋ねたところ、「マスクをしていないと皆に怒られるからよ」と答えたという文が載っていたのが象徴的であった。

 この国では、昔からの伝統的な「むら社会」が今なお残っており、世間体というものが重んじられる。隣近所の人たちの付き合いがなくなっても、会社や地域の目に見えない「世間様」は今なお隠然たる影響力を持っているようで、世間の風潮に逆らっては生き難く、決まったことはちゃんと守ることが今も美徳とされているようである。

 言い換えれば、多様性に乏しいことにもなる。学校でも、いつまでも制服があり、会社の面接を受ける新卒の学生たちが皆同じ服装をしているのも日本だけではなかろうか。周囲に合わせた方が良いというのが日本の人々の行動様式だとさえ言えそうである。

 多勢の在り方から外れた者への「いじめ」もそういったところから起こっている。一般社会や政治の分野でさえ、多様性の尊重と言いながら、変わり者が弾き出され相手にされない風潮が今なお強い。政府の右翼的政策にも、国民が次第に慣らされて、それが当たり前となり、反対する方がおかしくて、大勢に順応するのが良いという傾向が強い。

 かって、そういった世間の風潮の掲句が果てがあの無謀な戦争、破滅に繋がったという反省もすっかり忘れられたのか、今やアメリカに言われるままに、防衛予算は2%以上にと軍拡を進め、敵に対して先制攻撃さえ容認しようとしている。

 外交を蔑ろにして、アメリカに追随し、国の周辺の危機を煽り、世論を誘導して軍備を拡張し、戦争の出来る国にしていこうとしている政策はあまりにも見え透いている。同調性の強い世論が形成され易いだけに、近未来のこの国の命運を心配せざるを得ない。

 白泉の”戦争が廊下の端に立っている”という句が再び現実味を帯びて感じられるようになってきたこの頃である。誰かが”新しい戦前”とも言った。