軟着死

 

 若い人たちの間では、よく「死の恐怖」「死が怖い」「死を恐れる」などと言われる。確かに、まだ将来のある若い人の死は殊の外、哀れである。本人にとって、死は予期しなかった生の中断であり、絶望である。死が生の必然の結果であることがわかっていても、まだ遥か遠い存在であるだけに、突然の死は恐怖であり、何とか避けたいと思うのが人情であろう。

 人は必ず死ぬものである。早かれ遅かれ、いつかは嫌でもやってくる死を、誰しも避けるわけにはいかない。若い時には、生命力に溢れ、現在を生きることで精一杯で、自分の将来のことや夢を考えることに胸をふ膨らましても、いつ来るかも分からない死は未だ遠い将来のことであり、他人の死を見ても、自分のこととは考え難いし、考えたくないので、強いて無視するか、先送りして済ませようとする。

 しかし、誰しも人生には限りがある。長くとも、およそ百年である。従って、九十歳をも超えると、いかに足掻いても、もう先が見えて来る。嫌でも老化した自分を感じさせられるし、死も次第に近づいてくる。身の回りの親族や友人なども、既にあらかた先に逝き、寂寥と共に己の死の近づくのを嫌でも感じさせられる。

 若い時には未来の期待がある。「何年先に万博がある」「何処そこの大開発が五年先に完成する」「十年先には今の夢が実現しぞうだ」などといった予想に心を動かされ、「もう後何年だ」と期待に胸を膨らませることとなる。ところが、今年九十四歳ともなると、十年先の完成といえば、自分は百四歳のこととなる。そこまで生きている可能性は極めて少なく、もはや自分とは関係のない話になる。

 生命はいわば、無限に広がる死の海の上空を飛ぶ飛行機のようなものである。若い頃は高い所を飛んでいるので、遠くまで見渡せ、広い空を何処までも飛べるような気がしているが、年と共に次第に機体の性能は落ち、燃料も少なくなり、低空飛行になって来る。いつかはその海に消え去るよりないのである。

 周りを見渡しても、ある者は突然何処かにぶつか離、急に墜落したかと思えば、ある者はどんどん勢いを無くして、やっと低空飛行をしていたが、やがては水面に落ちてしまったと言うようなことになる。下には死の海が無限に続いているが、生命の炎は限られている。誰しも、いつかは、必ずこの死の海に呑まれていくことになる。運命から逃れることは出来ない。

 九十歳も超えると、もうこの低空飛行にも慣れて、死の海を飛ぶ恐怖感も薄らぐ。もう馴染みの死の海である。ちょっとした操縦ミスや、何でもないような障害物にぶつかったり、大波に遭遇したり、濃い霧で見通しが悪くなったりで、そのまま死の海に呑まれて、次々と命を無くして行く。若い時なら何でもないようなちょっとした出来事ででも、命を落とすことになる。

 年と共に、死と生の距離が近くなり、誰しも、いつかはこの広大な死の海に沈んで行く自分を認めることになる。比較的に高い高度から一気に墜落することもあるし、何度か墜落しかけて、それを繰り返しながら、やがて死の海に消えていくこともある。 

 出来ることなら、次第に高度を下げて死の海の水面スレスレを飛びながら、遂には、まるで軟着水するかのように、死の海に沈んでいくのが理想ではなかろうか。軟着水、すなわち軟着死とでも言うべきであろうか。