友人の死

 子供の時からの親しくしてきた友人の娘さんから、その友人の死亡の連絡が届いた。

 九十歳も超えると、多くの友人がいなくなり、寂しくなるものだが、この友人は、子供の時からの長い付き合いで、誰よりも、何でも気軽に話せ、相談もできる友人で、家族ぐるみの付き合いだったので、取り分け残念である。

 中学校で一緒になったが、一年生だったか、二年生だったかの時に、彼が虫垂炎で北野病院に入院した時に、見舞いに行ったことを今でも覚えている。お互いに背が低い方で、同じチビ仲間で一緒に遊んだり、一緒に教練を受けたり、勤労動員を途中で抜け出して映画を見に行ったりした仲間であった。

 戦後は焼け跡の復興による建設ブームに乗った彼の家のおかげで、まだ殆ど車のない時代に、アメリカの中古のオープンカーを手に入れた彼に、それに乗せてもらって御堂筋を突っ走ったこともあった。

 戦後初めて音楽会に行ったのも彼と一緒だった。焼野が原に残ったウイルミナ高女の講堂での辻久子のピアノコンサートだった。それから後も、彼には何度となく音楽会に連れて行ってもらったものであった。

 歳を取ってからも同窓会や仲間内の会合などでも、いつものように一緒に行動していたものであった。子供が産まれた時にアルバムを貰ったこともあったし、仲間の医師を紹介したこともあった。よく家にも来て貰ったし、よく一緒に食事などもした。

 何より世間の愚痴や、政治の意見など、一番話しやすい友人でもあった。九十歳を過ぎても、時に会ったり、電話でよく話をしていたが、一昨年だったか、千里中央で別れたのが最後で、彼が施設に入ることとなり、コロナで見舞いにもいけず、電話も繋がらなくなってしまって、どうしているのか時々気になっていたところであった。

 早速お悔やみの手紙を書いたが、さて、同窓会の連絡係のようなことをしている友人には、念のため、連絡しておいた方が良いだろうと思い、電話したが繋がらない。

 それでは、他の友人に知らせておこうと思い、まだ生きていそうな、付き合いのある友人に電話をした。もう九十歳も過ぎているので付き合いのある友人と言っても限られている。結局4人に電話したが、誰も「近くにおりません」とか「携帯が切れている」とかのメッセ-ジだけで繋がらない。

 そうなると、今度は彼らが果たしてまだ生きているのか、死んでしまったのかも分からないのが気になる。翌日、皆にかけ直してみると、3人は何とか繋がったが、あとの一人はもう死亡していることがわかった。

 八十歳代はまだ何人かで集まれたので、「まだ生きていたらまた会おう」とか言って別れたものだったが、九十歳も過ぎると、最早そう言って集まれる人もいなくなる。電話の声は元気そうでも、いつ逝くか知れたものではない。こちらが先に行くかも分からない。

 ここまでくれば、もういつ死んでも天寿真っ当である。静かにその時を待つよりなかろうと思っている。