差別は悪意のない所で生まれる

 もう随分以前のことになるが、 開業医をしていた友人から「後継者の候補者を紹介されたので、一度会って人物を確かめて欲しい」との依頼を受けたことがあった。その候補者は韓国名の人で、何処かの病院の勤務医であったが、会ってみると、人当たりも良く、人物も人並みにしっかりしていたので、後継者としても良いのではないかとその友人に勧めた。

 ところが最終的には、韓国名がネックとなって拒絶された。その友人が特別、人種偏見を持っている人ではなかったが、「患者さんが韓国名の医師では嫌がる人もいるのではないか」と心配したのが理由のようであった。

 私は学生の時から朝鮮人の友人もいたし、韓国名だからといって医師でも特に区別して考えたこともなかったが、世間の趨勢や、友人の考えも理解出来ないことはなかったのでそのままになった。

 世間一般では、韓国名の医師で医学の造詣の深い医師もおられるし、開業して結構流行っている韓国名の医師も決して稀ではない。医師として的確であれば、遜色はないと思うし、患者も腕さえしっかりしていれば、国籍や名前などあまり問題にしないのではないかと思うのだが、世間の偏見をどう捉えるかは、まだまだ人により異なるので、その友人には何も伝えなかったが、悪意がなくとも人種差別の根は深いものだと考えさせられたことであった。

 そんなことをふと思い出していたら、ごく最近、ロシアのウクライナ侵攻から隣国に逃れようとしたアフリカ出身のウクライナ人が、SNSに書いていたのが目に止まったからである。差別されて避難民の車に乗せて貰えず、一日中待たされたという写真付きのニュースが載っていた。緊急時のような時には、どうしても仲間優先、いつもの仲間以外まで構っていられないのであろうか。

 そうかと思うと、今朝の朝日歌壇には以下のような歌が載っており、選者が評を書いていた。『「上向いて」「それ下でしょう」食事時、施設のホールは呆けと突っ込み』という歌で、評は、『「施設」は高齢者施設だろう。集まった人たちの笑い声が聞こえるような一首』とあった。

 決して誰にも悪意があるわけではないが、笑い声の対象となった老人の悲しみと怒りがわからないのだろうか。悪意のないところに差別が生まれるのである。嘲笑の対象となった認知症の老人の寂しさ、哀しさに思い至る人がいないわけではなかろう。

 私も旧制高校時代、当時流行っていたデカンショ節の中で「塀の向こうをチンバが通る、ヨイヨイ、頭見えたり隠れたり」というのを、イメージ的に面白いと思って、歌っていたが、足の悪い障害者がどう思ったか、そこまで考えが及ばなかったことを今も覚えている。

 いじめや、からかいも、対象となった人の立場になってみれば誰にでもわかることであるが、思慮のある大人でさえ、つい気軽に相手を傷つけても、想像力の遅れから相手への思いやりがついて行かないことがあるものである。そういった事が持続的な、社会的な差別に繋がっていくことも多いのではなかろうか。