テンゴ

 

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f:id:drfridge:20220410182932j:plain 子供の時から「また テンゴしている」とよく怒られたものであった。

 思い出せば、新聞や雑誌、教科書やノートなど、ものを選ばず、殆ど無意識に、いたずら書きをしたり、消したり、破ったり、切り抜いたり、丸めて何かを作ったりしていた。例えば、カレンダーや広告に人の顔を見たりすると、ついその顔に髭をつけたり、眼鏡をかけたりしたい衝動に駆られて止められなかった。

 今はあまり使われなくなった言葉かも知れないが、いわゆる「悪戯書き」や「落書き」のことを、昔は「テンゴ」「テンゴウ」「テンゴウ書き」などと言われていたものであった。

 「三つ子の魂百までも」などと言われるが、こうした子供の時からの習性は一生ついて回るものらしく、とうとう九十四歳のこの歳になるまで抜けなかった。

 大人になってからも、手持ち無沙汰の時間でもあると、ついその時に手元にある物などで、手慰みをしようとして、手が勝手に動いてしまうのである。例えば、外食が済んだ後には、箸袋を開いたり、丸めたり、何かを折ったりと、自然に指が動いてしまうのである。

 ノートの余白にはつい落書きをするし、人の話を聞いている間に、鉛筆で無意味な線を弾きまくったりしたりする。退屈な会議の時には、向い側に座った人物の下手なスケッチをしたりする。不要になった箱や廃物などを見ると、ついそれで何かを作ったり、悪戯操作をしたりすることになりやすい。

 それが高じて、ひと頃は電車の中や喫茶店で、つい周りの人物のスケッチをよくしていた時期もあり、小さな手帳の白紙のページや、新書版の本の表紙の裏の白紙などは落書きで埋まっていたものであった。

 そんな流れからか、定年後写真を撮るようになっても、まともな写真ではなく、道路の剥がれかかった白線や、古くなって傷んだ壁、歪んだビルの窓に映った影、水に映った揺らぐ影、古い切り株や岩肌などと言ったようなものばかりをに目が行き、面白い形や影を切り取って作品にしたりして、それなりに評価もされることとなった。下手くそなクロッキーを続けているのもその関連であろう。

 また、歳をとって家にいることが多くなると、それこそ身近にあるもので、不要になった空き箱や空き缶、空き瓶、包装容器などを見ると、つい何かにしてみたくなり、人物に仕上げたり、抽象的な造形物にしたりして、額にして並べたりすることになったりする。

 いわゆるリサイクルアートの部類に近いが、どれも技術を伴わない拙い出来なので、アートには程遠い。アイデアだけで遊んでいるので、テンゴの類である。自分では「プレアート」と称してもいる。作者の自称も「麻田 点吾」とし、自宅に飾って、一人で楽しんでいる。

 米寿の時には女房の絵とともに、色々な作品を並べて二人展をしたこともあった。今もその時の看板であった「老いてこそ遊び心やテンゴする」と書かれた額が玄関に飾られている。

 仕事を辞めて家にいると、そんなことばかりしていることになるので、退屈するどころか結構忙しいのである。あっという間に時が過ぎていく。老大家のように、悠々たる大河の流れを楽しむ暇もない。良いのか悪いのか、もう死ぬまでこの調子で行くよりなさそうである。