平等と公平

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 年末の部屋の片付けで読みかけて放り出したままになっていた雑誌に不平等についての論説があり、何げなしのページをくると、平等と公平について書かれた部分が目に入った。

 民主主義の自由や平等についての文章の一部であるが、これまで平等についてはどこででもといっても良いぐらい見たり読んだりしてきたが、平等と公平の違いについてあまり真剣に考えたことがなかったので、つい目がいった。

 古い広辞苑によれば、「平等」とは、「①平かで等しいこと。かたよることのなく一様なこと ②一般的にゆきわたって不同のないこと。」となっており、「公平」とは 「かたよらず、えこひいきのないこと」と書かれているが、これらは言葉の元についてである。

 その論説による平等には2種類あるいという。

 第一の平等は、賃金総額が等しい場合のように、何かの数量または属性が等しいこと。単純平等、形式的平等、絶対的平等という。数、重さ、権利、自由、機会などが等しい場合で、数式で表せば A=Bの関係でる。一般に平等といっているのはこれを指している。

 ただし、平等にはもう一つあり、その第二の平等は時給が等しい場合のように、ある数量と他の数量が比例すること、または、比率が等しいこと、数式では、A:B=C:Dの関係で、比例的平等と言われるそうである。賃金率、利益率、利子率、税率などの平等を指している。

 賃金では貢献に関係する所得、必要に比例する所得などは、いずれも比例的平等が問題となるわけであるが、この比例的平等を「公平」ということもあるようである。

 しかし、平等は原点(出発点)も平等だという前提に立っている議論である。上の絵のようにあらかじめ不平等があったり、人々の属性の偏位や格差が大きければ、そこに平等を積み上げても不平等も格差もなくならない。もともと身体的にも社会的にも偏位幅が大きいのが人類の特徴である。A=BやA:B=C:Dを加えても偏位幅は変わらない。

 上の絵からも明らかなように、原点での偏位を調整しなければ平等な権利を得られない。これを調整した平等を公平というのである。身体骨格の大小を始め、性差、LGBTQなど、遺伝的な多様性、社会的、歴史的な偏位など人類の多様性を考えれば、平等より一歩進めた公平さこそが社会の基礎になるべきであろう。

 自由や権利の平等というが、自由の公平とか権利の公平とはあまり言わない。賃金率や税率などの比較では、平等よりも公平が用いられるようであるが、人々が求め、より重要なことは平等よりも公平ではなかろうか。

 最近D& I(Diversity and Inclusion=多様性を持った人々が同じ帰属意識を持てるようにすること)と言われてきたことも、E(Equity)が加えられて、DEIと言われるようになってきたが、社会の中での人々の公平性こそが民主主義の基礎となるべきであろう。