我々の子供の頃にはまだ普段履きには下駄や草履が幅を利かせていて、靴は外出用で、革靴かズック靴ぐらいのものであった。あと、編み上げ靴のブーツやゴムの長靴ぐらいのものしか一般には無かったのではなかろうか。地下足袋で北アルプスに登山したことも覚えている。
我々戦前に生まれた者にとっては、靴より下駄が青春時代の懐かしい思い出の履き物である。何よりも、あの下駄で歩く時のカランコロンとした音の響きが忘れられない。温泉宿などでゆっくり寛いでいる時などに、外を行く湯治客が三々五々カランコロンという音を響かせながら通っていく姿を思い浮かべると、今でもその余韻が感じられるような気がする。
その下駄の音から、それを履いて歩く人の歳格好から性格までも想像出来たし、家にいて、誰かが帰ってきたのを下駄の音で確かめるようなことも多かった。
日本の生活のように家の中では素足で、外へ出る時には履き物を履くという、上下分離の生活に下駄はかなっていたのであろう。戦後になって、洋式の生活が定着していっても、下駄は長い間生き残っていた。
縁側から庭へ降りる時など、下駄だと、靴のように踝を入れる必要もなく、そのまま突っかけて出れるので、手軽で便利であった。 そのため、外へ行く時には靴を履くのが普通になっても、家では下駄を利用することが多かった。縁側の外の敷石の上などにはよく下駄が置いてあった。
それが最近は、下駄がすっかりといっても良いほどなくなってしまい、下駄屋さんも見かけなくなってしまったのは寂しい。恐らく、縁側のあるような開放的な構造の家が減り、縁側も庭もない閉鎖的な構造の家ばかりのようになってきたことや、足袋がなくなり、親指と他の指が一緒になった靴下が普及し、下駄はかえって履き難くなり、それに合わせて外用のスリッパなどが普及してきたことなども関係しているのではなかろうか。
我々が旧制度の高校生だった頃は、制服制帽にマントを引っ掛け、高下駄を履くのが伝統的な服装であった。高下駄は少々歩きにくいが、背が高くなってちょっぴり優越感のようなものを感じられたし、まだ舗装道路の少なかった当時は、地道で泥を被ることもなく歩けたので重宝されていた。というより、貧しい学生はそれしか持ってなかったといった方が良いのかも知れない。いつも水に濡れたところで働く板前や調理師さんも今は長靴が多いが、当時は高下駄の人が多かった。
高下駄といえば、普通は二枚刃であるが、履いているうちに刃が擦り減り、外側の方が強いので、ガニ股で歩くようになり、時に刃を入れ替えて貰わなければならなかった。天狗の履いている一枚刃の高下駄もあった。平衡が保ち難く履きづらいが、上り坂だと案外上手く歩けたことを覚えている。いつだったか山のお寺で、一枚刃の高下駄を履いたお坊さんが坂道を器用に降っていったのを見て驚かされたこともあった。
下駄履きは靴のように足の指が圧迫されることがないので、今は窮屈な靴の中で他の指に圧迫されてしまって、歪んで小さくなってしまった足の小指も、その頃は嬉々としてまっすぐ伸びていたものであった。足指にとっては靴より下駄の方が遥かに健康的で気持ちよく生き生きとしてられるのである。
ただ下駄履きでは、思うように走れないのが欠点といえば欠点であった。急に逃げ出すような時には、下駄では間に合わないので、さっと下駄を脱いで、下駄を持って裸足で走るようにせねばならない。そんな為に、道の悪い所や山道などを旅す時には下駄ではなくて、草鞋や草履が用いられていたのである。
それはそうと、下駄履きで一番の問題は、時に鼻緒の切れることであった。道端で切れた鼻緒を治すためにしゃがみ込んで、片方の下駄を脱いで、鼻緒を付け替えている姿が時に見られたものであった。そういう時にはハンカチなど持ち合わせの布を引きちぎって間に合わせることが多かった。
若い女性が鼻緒が切れて困っているのを見た青年が、自分のハンカチを引き裂いて直してやり、それがきっかけで恋が芽生えたという話に憧れたことも遠い昔の思い出である。
なお、戦後間もない頃、家の近くの下駄屋の子供がよく家に遊びにきており、勉強など見てやったことがあったことを思い出した。その子が今どうしているか分からないが、成人して司法書士になり、事務所を開いていたことまでは知っている。もう現在はその下駄屋は跡形もない。
時代が変わり、今では下駄も下駄屋もなくなってしまい、思い出だけになってしまった。