萩の寺

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 新聞に阪急の曽根駅の近くの「萩の寺東光院」の写真入りの記事が出ていたので、久し振りだし、近くなので訪れて来た。この寺は阪急電車が高架になってから、電車の中からも、その前の池やそれに続く寺の建物が見えるようになり、途中で池が埋め立てられたりして、周辺の風景が変わっていくのも見てきたので、親しみのある寺なのである。

 秋になって萩の催しをやっていたようで、人出もそこそこにあった。かなり多くの満開の萩の庭は迷路めいてもいるが、多くの赤や白の小さな花が細い垂れた枝に無数に咲き、風に揺られたいた。

 萩は昔から秋の七草の一つとしても愛でられて来たが、こんな地味な花がどうしてそれほど喜ばれるのか不思議な気がしないでもない。お堂のすぐ前のあたりに萩の近くに、高く木槿か何か知らないが、大きな花が咲いていた。花だけ見れば、やっぱりそちらの方が大きく派手なので目につく。

 どうして萩が日本では好まれるのだろうか。アメリカ人などの感覚では、単にもしゃもしゃした草で、普通の雑草とさして変わらないのではなかろうか。それが日本では、細い枝がしなって風に揺れる様が、頼りなげだが、その繊細であって、儚ない印象が好まれるのであろう。

 萩の花言葉は内気だとか、物思い、思案、想い、儚さなどと言われる。そういう素朴で田舎らしい味わいが、古くから日本人の心情に合い、万葉の昔から人々の心に届いて来たものであろう。

 そう言われれば、古くからの日本人の「わび、さび」に通じる心情も分からぬことはないが、私ははやっぱり、花なら幾らでもある、もっと艶やかで派手な花の方に目が行くのは仕方がない。女房に「あなたは日本人でないと」言われるが、これも若い時の戦争の後遺症であろうか。