アメリカのバスの運転手

 先日新聞の特派員メモ欄に、ニュージャージーからニューヨークへ行く路線バスのことが載っていた。

「いろんな人が乗ってくる。30代ぐらいの女性は「財布を忘れた」。40代ぐらいの男性は「間違ったバスに乗ってしまったので戻りたい」。ただで乗せてくれという意味だが、その理由が本当かは疑わしい。でも運転手は「オッケー」と即答し、次々に乗せていく。「俺の判断だ」という自信がマスク姿にあふれている。・・・」といった記事であった。

 思わず、昔アメリカにいた頃に見た、バスの運転手のことを思い出した。私の印象に残っているのは、乗客と運転手のトラブルであった。もう昔のことなので、仔細は忘れたが、乗客と運転手が言い争いになり、運転手が「それならバスから降りろ」と言って乗客を降ろしてしまったことだった。

 日本での同じようなシーンなら、乗客の方が「俺はちゃんとお金を払ってるのだぞ」と強気に出て、運転手はお客とのトラブルを起こすのはまずいと考えて、渋々、その乗客も乗せて出発するところだろうが、文化が違えば、こんなところも違うのだなあと感心させられたものであった。

 アメリカの方がどんな仕事についても「契約」の概念が明瞭で、仕事の分担範囲、それに伴う責任などもはっきりしているのである。それだけに、請け負った仕事は責任をもって果たすが、それに伴う権限もフルに自由に行使することになる。仕事のマニュアルがアメリカで発達したのもそのためであろう。

 決められたバスの運行についても、運転手が安全運転を含めての全責任を引き受ける代わりに、それに伴う全権限も任されることになるのである。従って、乗客を乗せる乗せないの判断も、自分の権限に委ねられる部分が大きいのである。

 日本のバスの運転手であれば、乗客を勝手にタダで乗せたり、気に食わない乗客をおろしたりすることは許されないであろう。せいぜい出来ることは、このアメリカの運転手がやったように、高齢の女性を特別に停留所ではない場所に下すことぐらいであろう。それも日本では、規則違反であろうから、会社にバレないように、こっそりサービスするぐらいのことであろう。

 日本では会社は家のようなもので、従業員はお互いに助け合って会社のために働くと言った感じが強いが、アメリカでは、全く知らない者が契約で集まって、会社で仕事をしているといった感じで、契約による仕事や責任の範囲がはっきりしているので、同僚の仕事が忙しそうなので助けてやるというようなことはしないのが普通である。

 その代わり自分の責任範囲のことについては日本より厳格である。金の管理は当然運転手の責任である。ある時、バスが人里離れたような所の終点に着き、乗客を皆おろした後、引き返すまで間に、運転手がトイレに行ったが、僅かな釣り銭の入ったケースをわざわざ運転席から外ずして腰につけ降りて行った。乗降客も近くの人も誰もいない所で、ごく短時間のことで、そこまでしなくてもと思ったものであった。

 そう言えば、アメリカの治安の悪さも関係していたのかも知れない。ニューヨークの地下鉄の切符売り場のおじさんんもトークンの回収に、切符売り場から20歩ぐらいしか離れていない改札口に行くのに、切符売り場を出て、一旦鍵をかけて、行ったのを見たこともあった。

 またハワイの空港では、ラゲッジを空港内のバスからタクシーに積み替える場所でのことであった。幅1米ぐらいしかないプラットフォームの左についたバスから右に止まるタクシーに積み替えるのは、間にいるポーターがチップを貰ってしている。タクシーの運転手は運転席に座ったままで、乗って来るお客の荷物なのに、一切手を出さないのにも驚かされた。

 昔より今の方が、日本も随分アメリカに似て来たが、文化の違いは奥深いもので、所違えば、同じバスの運転手の行動パターンも違っているものである。(2021.09.21.の記事とする)