池田の五月山といえば、市街地の背景に緩やかに広がる山並みで、今ではその山麓はすっかり団地や住宅地に埋め尽くされて、古くからの街につながっている。山上に通じるドライブウエイやゴルフ場、墓地などもあり、山裾には古墳や公園、お城もあり、動物園や植物園、体育館、美術館などまで備え、桜の名所でもある。
しかし、大阪の郊外都市なだけに何事も大阪に目が向いており、五月山といっても、その殆どがが南側のことであり、その裏側についてはあまり知られていない。裏側というと、表日本、裏日本という区別が、北陸やその他の日本海側に住む人たちの反発を買うように、決して良い表現方法だとは思わないが、私の住んでいる所から見て、山の反対側という意味に過ぎないことを断っておく。
北側は余野川に沿って能勢地方につながる道が通り、街道筋は往来も盛んだが、横へそれると、人口も少なく、南斜面に住む池田の住民にとっても、あまり馴染みがない地域となっている。私も一度、五月山の頂上の日の丸展望台の近くから北側の斜面を東山の方に降ったことがあるが、それ以外は、久安寺や伏尾台の住宅へ行く機会はあっても、北側の部落を訪れたことは殆どなかった。
ところが、先日散歩に山道を通って絹延橋を経て、木部まで歩いた時に、近くに土地の神社やお寺のありことを知り、序でにそれらに立ち寄り、近くを散策して来た。先ず、木部の高速道路の終わりから少し先で、余野街道から少し山の方に入り、村の鎮守の神様であったのであろう記部神社へ行った。
小さな神社でひっそりと山の麓に佇んでいるが、大きな銀杏の黄葉が美しく、地面も黄色い絨毯になっており、古びた赤い鳥居とのコントラストに目が引かれた。誰一人いなかったが、大きな祭りの山車を入れる背の高い倉庫が並び、かっての秋祭りの賑わいを窺わせていた。
神社から少し山手に登った所には永興寺というお寺もあり、明治の廃仏毀釈の時代を生き延びた、昔ながら農村の歴史を想像させた。お寺を外から覗いた後、神社の下から横へ続く道があったので、そちらへ行ってみた。
山裾を迂回するような曲がった道であったが、いつも見る五月山の南側の池田とは違った時代の世界に来たような感じがした。まだ昔風の農家の構えの家が見られ、どの家の周りにも、多くの色々な種類の木や石を配置した庭があり、家のない所にも造園用の色々な木々や庭石が置かれた土地が続いていた。
丁度秋なので、紅葉や黄葉が入り混じり、山茶花も咲いたりして、山裾の落ち着いた小道が、久し振りで、懐かしい昔の日本の、里山の風景を思い出させてくれた。もうかなり落葉も見られたが、まだそれほど寒くはなく、空も青く、気持ちの良い散策を楽しむことが出来た。
ただ、昔だったら折角来たのだからと思って、もっとそこから足を伸ばしたところだろうが、今となっては体が許してくれず、残念だが、一休みして、適当に切り上げて、バス停のある所まで歩き、帰らざるを得なかったのが残念であった。