6月23日は沖縄慰霊の日

 6月23日は沖縄戦で陸軍の現地司令官だった牛島満中将が最後の激戦地であった糸満摩文仁で自決し、日本軍の組織的戦闘が終結した日であり、この日が県民の4人に一人というこの戦いで犠牲になった戦没者の霊を追悼する沖縄慰霊の日と定められている。

 戦争が終わって75年、今や戦争を体験した人たちで生存している人も少なくなり、戦争の実相の継承が困難になりつつあることが問題になっているが、ここで政府や軍が犯した過ちは決して忘れてはならない。同時代を生きたものとして私にとっても忘れられない日である。

 自分の住んでいる故郷での戦争が如何に過酷なものか想像に余るものがある。軍隊は決して一般住民を守ってくれるものではないことがこの沖縄戦でもはっきりしている。当時の住民の話で「アメリカ兵より日本軍の方が怖かった」という話も聞いた。

 軍隊は組織として敵と戦うもので、戦争に勝って初めて住民を守ることも出来るが、戦いの中では、住民はむしろ戦さの邪魔者なのである。沖縄戦の場合にも敵に追い詰められて、住民の食料を奪ったり、避難していた住民を壕から追い出したり、集団自決を強要したり、スパイを疑って殺したり、一般住民に対する悲惨な事件が繰り返されたことを忘れてはならない。

 軍隊が住民を守るものでないことは戦後も変わらない。自衛隊ソ連軍が北海道へ侵入して来たことを想定した机上訓練でも、札幌は人口が多く、住民の避難に手こずるので、一旦札幌は放棄して、周囲の山に立て籠もって、反撃に出るというのが結論であったということもあった。

 なお、沖縄の戦争は6月23日で終わったわけではない。北方へ逃れた敗残兵や中野学校卒業の将校が組織した護郷隊などによるゲリラ戦は8月の敗戦日以後まで続き、無駄とも言える犠牲者も増えたのである。最近出版された「証言・沖縄スパイ戦史」(三上智恵著・集英社新書)を読んだが、護郷隊というのは私と同年輩の、当時まだ15〜16歳の少年を組織したゲリラ部隊で、山の隠れ家に篭り、情勢を見ては撃って出るという戦いを続けていたようである。

 当時、私がまともに天皇陛下の御為には命を投げ出してもと思っていたように、護郷隊の少年たちも絶望的な状況にあっても、戦艦大和が助けに来てくれる、それまで何とか持ちこたえなければなどと真剣に思って戦っていたようで、当時の雰囲気が分かるだけに、我が事のようにこの本も一気に読んでしまった。

 それにしても、牛島中将が大本営宛の最後の通信で、「沖縄県民はよく戦った。将来特別のご配慮を」と言ったそうだが、沖縄のその後の歴史はどうであったのであろうか。日本政府は国民の反対に配慮して、アメリカの基地を沖縄に集中し、沖縄の人たちの犠牲や切実な願いにも関わらず、度重なる選挙によって明らかな民意さえも無視して、戦後一貫して、沖縄の人たちのためではなく、すべてアメリカに奉仕し、今でも辺野古の基地建設を強引に進めようとしている。政府にとっては沖縄は日本でなくて、アメリカに提供した植民地なのであろうか。沖縄戦の犠牲者の慰霊とは全く逆の行為である。

 さらに最近の西南諸島や先島列島への自衛隊の配備は沖縄戦の再現をも起こし兼ねない危険を孕むもので、亡くなられた多くの沖縄の人たちへの冒涜ともなり兼ねない。沖縄の慰霊の日の条例の第一条には「我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため、慰霊の日を定める」と書かれているのである。

 政府は沖縄慰霊の日を殉国の戦士の表彰の日と考えるのではなく、かっての大日本帝国やその軍隊の犯した大きな誤りの犠牲となって無残に亡くなられた多くの沖縄の人たちへの静かな慰霊の日と捉えるとともに、それに答えて、辺野古基地問題をはじめとする、現在の沖縄の人々の切なる願いに応えるべきであろう。