「お庭の幼稚園」の頃

 歳をとる程に、過去の記憶も積もっていくが、片方では、それらの記憶もどんどん忘れられていく。脳は自然と記憶の容量を調整しているのであろう。

 老後の単調な生活になるにつれ、昨日何処へ行ったか、一昨日何をしたかといった日常の些細な出来事はすぐに忘れ去られていく。認知機能が衰えると、つい先ほど食べた昼食の記憶さえすぐに何処かへ飛んでいってしまう。

 しかし、その割には、遠い昔の若い時の記憶は案外残っているものである。殊に自分にとって衝撃的であったり、印象の大きかった出来事などは、形が変わって、歪められていても、それなりに長く残っているものである。

 母は90歳を過ぎてからも、何かにつけて県庁横にあったという「記念碑を知らんかね」と繰り返し話していた。どうも、女学生時代に県庁の横に日露戦争の記念碑でもあり、そこを曲がって学校へ行っていたらしく、それが通学路のシンボルであったようである。大正のはじめ頃の話である。

 また、グループホームにいる94歳になる姉は、車椅子で連れ出して、近くの長居公園に行く毎に「戦争中は兵隊さんが沢山いてな・・・。今でもそこらから兵隊さんが飛び出してくるようだ」と繰り返し言っていた。

 私にとっても、子供の頃の戦前の記憶は、もう断片的になってはいるが、それぞれが古い動画の一場面のように次々と浮かび上がってくる。勿論、私の大きな記憶は何と言っても、大阪大空襲や広島の原爆その他、戦中戦後にまつわるものであるが、ここでは、それよりももっと古い子供の頃のことを思い出してみよう。

 この間このブログに、子供の頃に覚えた「故郷の歌」について書いたので、序でに、幼稚園の頃を思い出して見た。私が通っていたのは「お庭の幼稚園」と言って、キリスト教系の個人経営の幼稚園で、阪神電車の香櫨園の駅の近くにあった。先日に書いたように英語の歌なども教えられたが、確か1年間だけだったからか、当時の様子はもう殆ど覚えていない。

 ただ覚えているのは、園の庭の塀の近くで遊んでいたら、塀の下の隙間から外からジョウロで水をかけられたことである。幼稚園の隣には園長さんの姉さんが住んでいて、時々園児にも意地悪をすると聞いていたが、その時は友達と話しただけで、園長さんに言うことも出来ず、そのまま我慢したように思う。

 今から思えば、園児たちの間に、園長さんと姉さんは仲が悪くて、時に姉さんが園児にも意地悪をするという噂があったので悪くとったが、今から思えば、水をかけられたというのも、恐らく、姉さんは幼稚園の隣の自分の庭の塀寄りに花壇を作っていたので、花へ水をやる時に幼稚園側にも飛沫が飛んで来ただけのことだったのではなかろうか。

 それと、当時のことで思い出すのはもう一つ。戦前の我が家には「ねえや」と呼ばれる女中がいたが、その「ねえや」に連れられて二人だけで出かけた時、香櫨園の駅の近くの踏切の手前で、バスが来る前方の道を急いで横切ろうとして、私が躓いて転び、目の前でバスが急停車してくれて助かったことがあった。今から思えばそれほど切羽 詰まった状態ではなかったようだが、家へ帰ってその話をすると、「ねえや」が怒られるので、二人だけの内緒にしておこうと約束したことがあった。

 その他のその頃の思い出としては、昭和9年の室戸台風で、家の板塀がまるで紙のようにめくれて吹き飛ばされ、斜め向かいにあたる銀行役員の大きな屋敷の、庭の松の木が倒され、門の屋根を直撃した光景が浮かぶ。また家の近くの、他の屋敷の塀と溝との間の狭い空間で、近くの子たちとよく遊んだこと。当時は近くで宅地造成が盛んで、牛車が何台も並んで土を運んで来て、田圃を埋め立てていたこと。その近くの未舗装の道路を土煙を上げて走ってくる車の前を横切って走って渡ったことなど断片的だがいろいろ思い出される。

 こんなこともあった。近くを阪神電車が走っていたが、恐らくそこに信号があって、決まった所で電車が時々止まったのであろうが、それを見て「運転手さんの腹痛で止まったのだ」と誰かが言ったのを聞いて、「運転手さんがまた腹痛を起こしたよ」などと言い合ったこともあった。

 父親が部下の社員を家に招待したこともあった。その一人が私を膝の抱いてくれたことも、なぜか覚えている。当時の医者は人力車で往診するのが普通であり、近くの家の前に人力車が止まっていると、あそこの家で誰か病人が出たと噂をしたりしたものであった。夕方薄暗くなった頃に、いつもとは反対の方角から父親が帰ってきたことも何故か思い出される。どれも断片的に過ぎないが、当時の光景が次々とアトランダムに蘇ってくる。

 どれも取り留めもないことばかりだが、今となっては遠い昔の懐かしく思い出される記憶の断片である。