金ピカの過疎地

 東日本大震災からこの3月11日でもう丸9年になる。それを期して、新聞やテレビにも福島や岩手の原発事故や、津波による災害からの復興状況などの記事にあふれている。

 常磐線は全線復旧したし、三陸を縦貫する沿岸道路も着々と作られているそうである。爆発した原発の後処理はいまだに進んでいないが、周辺の放射能汚染による帰還困難地域も狭められてきている。三陸海岸津波に襲われた地域には巨大な防波堤や山を削った盛り土による嵩上げ工事も完成しつつある。鉄道の駅も町役場も新しくなり、昔の街とはすっかり変わってしまたようである。この国の得意とする土木工事の本領発揮で、大掛かりな復興工事はそこそこ順調に進んでいるのであろう。

 政府はしきりに復興を強調するが、人々の様子を伺い、いろいろな意見を聞いていると、どうも何か喜べないものがある。被災地の復興を示す写真や記録を見ても、土木関係はは復興しても、人が戻ってこないので、過疎は一層進んでいるようである。新聞のコラムにも、「復興はコンクリート優先、聳え立つ防潮堤、山あいを貫く自動車道の威容を横目に、人口が減る街の模索が続く」とある。

 足らないのはまさに取り残された避難民である。肝心要の人々の心の復興が置き去りにされているような気がしてならない。新聞のどこかに誰かが「金ピカの過疎地」と言っていたが、うまく言ったものだと感心した。

 政府の進めた復興と避難した住民達にとっての復興との間に大きなギャップがある。住民達が高すぎて海が見えないとした防潮堤は、予測される津波の高さに基づいて、住民の意見は無視されて聳え立つような堤が作られ、避難者達からは私の故郷はこの盛り土の下にあるとも言わしめている。

 新聞の写真を見ても、駅や役場の庁舎はモダンな建物に建て変えられているが、新たに開発された住宅地には、家が少なく空き地のままである。もう昔の故郷は無くなってしまっている。もともと過疎地であった所から追い出されて、他の場所に生活の根拠を移さざるを得なかった住民達が、やっと築いた生活基盤を再び変えることは至難の技であろう。故郷は帰りたくとも帰り難い所になってしまっている人も多いだろう。

 政府は、それでもアンダーコントローと言って獲得したオリンピックを復興五輪と称して、聖火リレーも東北から始めることにしているが、聖火の通るコースだけが、通りも整備されているそうである。

 力の弱い過疎地の人々の意見を聞かず、中央政府や、それに群がる利権に振り回された復興を「金ピカの過疎地」とはよく言ったものである。人のいない「金ピカの過疎地」は時とともに次第にくすんで復興の夢も虚しく、昔以上に過疎化し、災害の記憶の薄らぐのとともに、次第に荒廃に向かっていくのではなかろうか。