孤独死はもっと増える

 新聞の一面トップに大きく孤独死「2日以上」は2996人と出ていた。大阪府警の調査で、大阪府内で昨年1年間に、誰にも看取られないまま、屋内で死亡し、死後2日以上たって見つかった人の数だそうである。またニッセイ基礎研究所の推計によると、自宅で死亡し、2日以上たって見つかる高齢者が年間2万7千人に上るという。

 なお、孤独死といえばもっぱら高齢者の問題のように考えられがちであるが、上記の大阪府警の調査によると、自殺も含まれるが、40台、50代の「働き盛り層」が18.4%も占めていたという。

 このように最近、孤独死孤独死とよく言われるようになったが、何が一番問題なのかについては、「誰にも看取られないまま」死ぬ人が可哀想だという意味合いで言われているようなニュアンスのものが多いが、それが本当に問題なのであろうか。

 昔のような家族制度が崩壊し、村社会もなくなり、結婚しない人が増え、一人で暮らす人が多くなると、生があれば必ず死があるわけで、一人で死んでいく人が多くなるのは当然であろう。今では近隣の付き合いも薄くなり、引きこもりの人も多く、日頃から社会との接点の少ない人が多ければ、孤独死が多くなるのも当然であろう。

 死んでいく側から言えば、孤独に一人で生きて来たのであれば、一人で死んでいくのも当然ではないかということになるのではなかろうか。昔のように親戚や知人、友人に見守られながらの死を望む人もいるだろうが、死ぬ時ぐらいは自分の好きなようにさせて欲しいと思う人もいるであろう。

 私の場合は、家族が皆外国に住んでおり、言わば、日本では女房と二人きりなので、私が後に残れば、孤独死で結構だと思っている。自分が死ぬからといって、わざわざ家族がそれぞれの仕事を休んで、死に立ち会うだけのために海外から帰って来なくても良いと思っている。行ったり来たりで時々会っているので、伝えるべきことは伝えてあるし、死に際にあえて会わねばならないことはない。

 死は思わぬ時にやって来るもので、いつも予定通りという訳にはいかない。一人暮らしであれば、如何に避けたいと思い、工夫をしても、死はいつやってくるか分からない。孤独死は望まなくても、誰にでも突然不意にやって来るものである。

 孤独死で困るのは死んで逝く人ではなく、実は、残された社会の対応の仕方ではなかろうか。死後、何日も経てば、肉体の腐敗が進み、死後の処理に困ることになる。屍体は物を言わないので、自然死かどうか、犯罪の絡みはないかなど確かめなければならないことになる。腐敗した死体の処理だけでも大変である。

 その上、遺族と容易に連絡がつけば良いが、そうでない場合には、そちらへの連絡も必要になるし、もし分からなければ、調べ出さねばならない。遺品や遺産、その他の整理や処分もしなければならず、社会はそのために多くの負担を負わされることになる。

  孤独死の問題は誰にも看取られないで死ぬ人ではなく、残された社会の問題である。そのために、孤独死する方も出来る範囲では、社会に迷惑をかけないように配慮する必要があるであろうが、死は必ずしも本人の意思通りなるものではないことも、社会は覚悟しておく必要があるであろう。

 少子高齢化で今後益々死亡が増えるだけでなく、それぞれの親族の数も減り、人々の移動も激しくなり、村社会の崩壊で近隣との繋がりも少なくなる。更には、産業の転換によって職場における人々の連帯も薄くなり、人々は益々孤独になっている。

 身近なことだけ見ても、昔は向こう三軒両隣で、隣家の縁側まで入り込んでの交流があったが、今は縁側のある家さえ少なく、密集していても、家の作りだけを見ても、狭い窓だけの家が多く、接する隣に誰が住んで、何をしているのかもお互いに知らない。子供が少なければ、子供を介しての付き合いも少ない。その上、仕事に出かけている人は、仕事の上での連帯感が薄らいだ上に、長時間勤務で在宅時間が少なければ、近隣との交流も少なくなる。

 こういう社会が続けば、人々は益々孤立化し、その結果が孤独死の増加に繋がるであろうから、今後孤独死は益々増えると考えて置くべきであろう。本人にとっては、孤独死は決して避けるべきものではないであろうが、社会がそれに対してどう対処していくべきかが今後の孤独死の問題ではなかろうか。

 孤独死を減らすためには、広範な社会政策が必要であろうし、直接孤独死に対応するためには早期発見と死後の対策を考えるべきであろう。