朝飯を済ませ、後片ずけも済んだ筈なのに、女房がキチンの流しで、桶に何かを入れて洗っている。何だろうと思ってみると、テーブルクロスを流しで洗っているところであった。
前日、我が家で小さなパーティをしたので、その時に使ったテーブルクロスであった。洗濯機で洗えば良いものを、なぜ流しで、手で洗わなければならないのか疑問に思って、「どうして洗濯機で洗わないのか」と尋ねると、食卓で使うものを、下着などを洗う洗濯機で洗うことに抵抗感があるようであった。
合理的に考えれば、食卓のテーブルクロスと下着を洗濯機で一緒に洗おうと、綺麗になり方も、衛生的にも変わらない。ただ気分的に、食卓で使うものは、外で使う汚れたシャツなどとは区別して、綺麗に処理したいのであろう。
昔から日本では家屋は高床式で、建物の内と外の区別が明らかで、外は汚れた世界で、内は綺麗な世界とはっきりと区別されてきたので、それに伴って、屋内で使う上の物と屋外で使う下の物(内の物と外の物)を一緒に扱うことに抵抗感がある歴史が長く続いてきたようである。
従って、食事のように綺麗な所で使う上の物(内の物)と、汗や埃に汚される下の物(外の物)とを一緒にしてはいけないという伝統が、未だに人々の心の中に根強く残っているようである。ヨーロッパや中国のように、家の中と外とで段差の少ない生活では、靴を履いたまま屋内に入るのが普通であり、ベッドへ入る時に初めて足を洗う生活とは違った歴史である。
従って、この伝統は建物や生活態度が変わってもなかなか抜けず、以前はどこの学校でも、上履きに履き替えて校舎に入ったものだし、未だに玄関で靴を脱いで、スリッパに履き替えねばならない建物も多い。未だに日本では大抵の屋内の便所にもスリッパが置かれているのもその名残であろう。
また今でも、電車の中で大きなショッピングバッグを前の床に置かないで、隣の座席に置く人も多い。今は少なくなったが、風呂敷包などは床にはおけないであろう。そんな伝統から、駅のベンチなどでは、荷物用のスペースを用意したベンチなど、日本でしか見れないものもある。公園などで芝生に座り込む時でも、日本人は新聞紙なり、ハンカチなり、何かを敷いてその上に尻を下ろすことが多く、直接尻を地面につけて座ることは上品でないとされてきた。
しかし、アメリカなどではそう云った伝統がないので、洗濯物も合理的な判断のみによって処理されてきた。昔、アメリカにいた時、主婦が汚れたシャツと汚れたズックの靴を一緒に洗濯機に放り込むのを見てびっくりさせられたことがあった。
ただ、日本の伝統も最近は大分変わってきたようで、近頃の学生は電車の中でも大きな鞄は床に置くのが普通のようだし、平気で床に座り込むようになってきている。
アメリカに住んでいる私の娘の家などでは、日本式に玄関で靴を脱いだ方が屋内が清潔で衛生的なのでそうしているが、玄関に日本式の上がり框のような段差がないので、それぞれが玄関で適当に靴を着脱して済ませているようである、
民族や地方によって、日常生活での仕草や行動様式も微妙に違っているが、それぞれ長い間の過去の歴史を引きずっているからであろう。