昨年のことだったか、FaceBookでフイリッピンの災害避難所の写真(上の左下の写真)を見て、日本の災害時における学校の体育館などでの避難生活(右下の写真)と比べて、フイリッピンの方がプライバシーが保たれて良いなと思ったのだが、今年になってイタリアの災害仮設避難所の写真を見て、更に羨ましく感じた。イタリアではワインまで出るとかで問題になっているぐらいである。
衰えたとはいえ、今尚経済大国であり、地震や台風、津波など自然災害の多い国なのに、どうして日本は災害といえば、学校の体育館や講堂での雑魚寝なのであろうか。板張りの大きな建物の中で、お互いに知らない人たちが雑魚寝の状態を強いられ、全くプライバシーも守られないような状態で何日も避難生活をしなければならないのである。
おそらく、古くからの習慣で、近隣で一番広い空間が確保され、多くの人を収容出来る一番イージーな場所が、最寄りの小、中学校なので、いつの頃からか、何かの災害時にはそこを避難所とするのが習慣として続けられてきたのであろうが、もうそろそろ災害対策としての、避難所のあり方もここらで真剣に考え直すべき時が来ているのではなかろうか。
今の避難所である学校や公民館などは、一時的に短時間避難して嵐が止むのを待つ待避所としては役立っても、およそ避難所として生活する場所としては出来ていない。個人のプライバシーが全く保てないし、給水、給食、トイレ、ベッド、椅子などの生活に不可欠な設備がないのが致命的である。
生活の場を提供するのであれば、短時日にしろ、最低限のプライバシーが保たれ。休養、食事、排泄の設備が整ったものでなければならないであろう。地球の高温化の影響なのか、最近のようにあちこちで大きな災害が多発するようであれば、国民の生活を守るために、非常時に短期間であれ、せめて写真にあるフイリッピンやイタリアの例ぐらいの人々が避難生活を送れる対策を用意しておくべきではなかろうか。
アメリカの言うなりに大金をはたいて役にたつかどうかもわからないイージスアショアや多数の戦闘機やオスプレイなどを買うより、その予算を回してでも、優先的にそのような災害対策を充実させて国民を守るのが先だと思うがどうであろうか。
なお、今度の台風19号に際して、東京の台東区が路上生活者の避難所への入所を対象でないとして拒んだことは、最低の差別であり、人権無視で、人道上も許されるべきことではない。人間として強く糾弾されるべきものである。