忖度

 森友学園問題以来”忖度”という言葉が流行っている。どこの国でも多かれ少なかれ、他人の意向を推し量って、それに同調する行動をとるようなことはあるのだろうが、日本では昔から人の移動の少ない島国での農村社会だったためもあるのか、殊の他”ムラ社会”による同調意識が強く、同調出来ないものは仲間はずれや村八分などということにされてきた。

 私の子供の頃には、何かにつけて「大人になればわかるよ」と言われたし、少し大きくなってからも、少数意見の”正論”を言ったりすると「大人になれよ」と言われたりしたものである。

 そういったムラ社会に同調することが「大人になる」ことであり、周囲と協調して上手く生きることだと教えられた。自分を殺し、周囲に”忖度”し、その中で如何に生きるかが生活の知恵とされてきた。

 以来、世の中は随分と変わってきたが、この忖度の大事なムラ社会の生活は今なお形を変えて続いている。自民党政権が維持されているのも、そのおかげによっているところが大きいとも言える。

 どんな政策にしてもお金が絡む。関連する業界団体などは競争に勝ち残り発展するためには、少しでも政府の意向に沿った構想を立て、業界団体の意思を統一して政府に取り入らねばならない。

 そのためには、もともとムラ社会の伝統を持った業界が、その利益のためとして関係者に同調が求められ、異論は封じられる。個々のメンバーにとっては生活がかかっているので、心の中ではどう思っていても、異論は伏せて、表面的には大勢に同調することになる。

 どの業界団体にしても似たりよったりで、このムラ社会の利害関係が自民党支持の最大の組織となっているのであろう。個人は進んで組織に忖度し、組織は政府に忖度してことをスムースぬ運ぼうとすることになる。

 戦時中の放送局でも、上からの強制がなくとも、「放送報国」を掲げ、放送現場は戦意を損なうニュースや表現を、検閲される前に自ら削るのが日常となり、後は上からの指示通りに、戦意高揚や偽りの戦果などを流すことになっていたようである。

 しかし、これは今でも同じである。組織の中で生きるためには、上からの圧力がなくとも、周囲に同調して上にも忖度して問題なく過ごすことが求められる。自分の良心に沿ってどうしても同調出来ない時には、森友学園問題での近畿財務局での職員の自殺というようなことにもなりかねない。

 最近のあいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」の慰安婦像をめぐる中止事件でも、河村市長や大阪の松井知事、菅官房長官などの関与は否定出来ないが、この表現の自由を脅かしたものは、むしろ現場側が忖度をしたり、トラブルを避けようとしたりして、結果的に特定の表現が排除された結果となったもののようである。

 この国では直接の上からの圧力だけよりも、それによって間接的に一部の世論を動員して、一定の雰囲気を盛り上げ、多くの人々にそれを忖度させる方法が、世論を操作する有効な方法だと言えるのかも知れない。政府の力は圧力をかけて忖度させることのようである。