忖度の恐ろしさ

 忖度という言葉は”忖”も”度”も「はかる」意で、本来は相手のことを慮ることで、悪いことではないが、上下関係や力関係のある中での忖度は、見えない力の行使に利用される。下の者が上の者に諂ったり、籠絡しようとすることに繋がるだけではない。権力を持った者が、直接命令や指示をするのでなく、わが意を忖度せしめて、間接的に命令や指示を実行せしめ、しかも己の責任は免れようとする狡猾で卑劣な方法であることを知るべきである。

 その典型が安倍首相に見られるものであろう。森友学園問題の時も、「自分が関係しているなら首相も国会議員も辞める」と大見得を切り、官僚たちが忖度してやったことで自分は一切知らなかったと言い、加計問題でも、忖度した官僚に責任を負わせて、自分は親しい友人でありながら最後まで知らなかったと主張していた。

 そんな後で、今度の統計調査の問題でも、都合の良いように操作していても、調査方法の変更は官僚が忖度してやったことで、自分は全く知らないと涼しい顔をしている。

 しかし、重大なことは、このように忖度が広がると、権力者側は命令や指示を出す前に、忖度することを暗示するようになり、それに応じて関係者たちは、出世のためや保身のために、指示より先回りして忖度し、競争相手より少しでも早く利にありつこうと努力することになる。権力が強力であればあるほど、その傾向は強くなる。あちらでもこちらでも問題が起こる前に、忖度して問題を回避しよう、させようとする力が働く。

 殊に、日本ではいわゆる”むら社会”の伝統があり、未だに大勢に和するを良しとする傾向が続いており、いろいろな議論なしの忖度がされ過ぎる嫌いがある。さらに忖度は忖度を呼びやすいので、特に注意が必要である。そういう社会では、忖度が嵩じると、仲間を売ることにさえ繋がりかねない。権力者にとっては万々歳である。戦前の日本がまさにそうであった。現在の政治風土がますます戦前に似てきたことを憂うるものである。

 現に、メディアの官邸に対する忖度が云々されているが、最近の記者クラブにおける特定記者の質問に対する妨害や、内閣官房からの質問制限とも取れる要請文など、報道の自由に対する抑圧の問題も起こっている。

 しかも、それに対する記者クラブの対応の中で、後で削除されたものの、「望月さんが知る権利を行使すれば、記者クラブの知る権利が阻害される。官邸側の機嫌を損ね、取材に応じる機会が減る」といった記者クラブの分断や、報道の側の忖度まで出始めていることは極めて危険視すべきであろう。

 それを踏まえ、戦前の翼賛政治を思い出して、それに現在行われている官僚などの政府に対する忖度などを照らして見れば、決して官僚たちの単なる処世術などと言って済ませられるものではないことが分かる。

 今の趨勢が続けば、忖度は表に出にくいだけに、させる方を増長させ、する方を促進させて、両々相まって政治の正道を外し、再び独裁への 道を開くことになる恐れが強くなる。

 政府をめぐる忖度は放置を許さず、厳しく一つ一つを追及して行かねば、取り返しのつかないことになることを認識すべきであろう。