第41回SUN77写真展

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 毎年一回私がグループで催しているSUN77写真展は、今年は去る7月19日から24日にかけての一週間、例年のごとく心斎橋のピルゼンギャラリーで行われました。今年も大勢の人たちに見に来て頂き、先ずはお礼申し上げます。

 いつの間にかもう41回目、私がメンバーに加えてもらったのが十何回目からだから、それからでももう30年近くになる。その間にメンバーも殆ど変わり、今では私が一番の古参になってしまった。

 この写真展の特徴は普通によく見られる美しい風景や人物、自然や社会現象の記録のような写真ではなく、構成メンバーがそれぞれにテーマを持ち、写真を媒体とした平面的な表現を目指していることである。

 それぞれに作者が生活の周辺で見つけた形態や色彩などの中でアーティスティックな興味を惹かれたものを写し、少しばかり手を加えたりして自分なりの表現をしようとして来たものである。写真を表現の手段としているが、必ずしも写真にこだわらず、一つの平面的な表現を目指している。

 私の今回の作品は大阪市立美術館から動物園の上を通って新世界に通じる空中回廊のような通路の、両側面を覆うガラス窓様の透明な壁面のプラスチックのシートが経年変化でボロボロになってきて、傷ついたり破れたりしてあちこちに模様が出来ているのを撮ったものである。

 破れた所がそれぞれに人の形をしていたりしていて、その表情に気を惹かれたので素材に使わせてもらったものだが、撮影して暫く後で行くと壁面は既にリニューアルされていて対象とした傷みの像はすっかりなくなってしまっていた。儚い命であったのでタイトルを「有為転変」とした。

 振り返ってみると、これまであまり意識していなかったが、最近はこういった身辺に見られ、人知れずにひっそりと現れ、やがてまた消えていってしまう色々な儚い姿を拾って作品にして来ている。剥げ落ちてボロボロになった道路の白線の残骸、切り株に残された表情、古くなった金属の錆や汚れ、岩肌や古い塀などの「しみ」の造形、あるいは反射して複雑な一瞬の光の影などに現れた人像などである。

 いずれも誰に見られることもなく、偶然に現れ、また消えていってしまう儚い人の姿を表す様な像を写してきたことになる。あまり人目にはつかないが、自然の移り変わりに伴って現れてはまた消えていく自然の営みの一部を切り取って、有為転変する時空の一部に自然の姿を想像しようとして来たものである。

 写真の仲間にはそれなりに評価もされているのだが、いつも女房には「ケッタイな気持ちの悪い様なものばかり撮って」と言われる。しかし振り返ってみると、自分でもあまり意識していなかったのだが、どうも儚い自然の片隅の営みに何か惹かれるものを感じて対象にしてきたようである。

 そして最近気がついたことは、それがどうやら自分が生きてきた人生の中で、自分に染み付いてしまった性(さが)の表出なのではなかろうかということである。17歳で戦争に負け、”大日本帝国”の消失とともに、すべてを失ったしまった人生。神を失って以来、根底に根付いてしまったニヒリズムが、大自然の片隅でひっそりと消えていく儚い姿に我知れず惹かれるのであろうか。

 どんな作品にも、本人は意識しなくとも、自然にその人を支配している思想や根源的な生き方がどこかに顔を出すものの様である。