レイハラ

 

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 以前にヌーハラという言葉がヌードルハラスメントのことだと言われても、ヌードルハラスメントとは何のことかわからなかったことを書いたことがあるが、今度はレイハラだという。今度はハラはハラスメントだとすぐ想像出来たが、さてレイとはなんだろうかと一瞬迷った。レイシャルハラスメントのことであった。

 最近はSNSの影響なのか、外国語から来たカタカナ日本語をさらに縮めていう言葉が流行るので、なかなかついていけない。民族的偏見とでも言ってくれればわかりやすいが、レイハラなどと突然言われてもすぐには何のことかわからない。漢字熟語の略語なら表意文字なので、およその見当はつけやすいが、耳慣れないカタカナでは想像のしようもない。

 それはともかくとして、この民族的偏見、すなわちレイハラは、見つけたものを二、三冒頭に掲げたが、これはほんの一部で、FBなどの書き込みを見ると、まるでこれでもか、これでもかというぐらい、韓国や中国についての悪口雑言が目につき、最近は目に余るほどひどくなった来たような気さえする。

 しかし中国人や朝鮮人に対する蔑視的な発言や行動は今に始まったことではなく、戦前から戦中にかけてのレイハラは今よりずっとひどいもので、関東大震災の時の朝鮮人虐殺事件のようなこともあったし、我々が子供の頃は、日本が朝鮮半島を植民地にしており、支那事変と称して中国への宣戦布告なき侵略戦争をしていたこともあり、中国人をチャンコロ、韓国人をチョーセン、もしくはセン人(賤人)などと公然と呼び、日本人より一段下の人間として扱っていた歴史がある。

 今の「慰安婦問題」も強制があっただの、なかっただのの手続きの問題などではな

く、元はこんなところに根ざしていることも知っておくべきであろう。戦後に「ニギリシュパワー?」と言って一斉に日本人が追われたのはその劣悪な植民地支配からの解放の声であったことも忘れてはならない。

 それに対して、敗戦後であっても日本は同じ外国人でも占領軍や欧米系の外国人と区別して、あからさまには卑下しては呼べないので、第三国人という言葉を作って、特別な存在として扱い、何かにつけて非難の対象としてきた。それでも世界情勢の変化に伴って、一時は少なくとも表面的には敗戦までのような蔑視は多少影を潜めていたが、日本社会の右翼化が進むとともに、この数年ばかりで再び酷くなってきている。

 中国が経済的に日本を追い越し強大化してきたことへの妬みの感情も含まれているのか、尖閣諸島などの国境問題も絡み、アメリカの虎の威を借る狐のように何かにつけて中国を悪く言い、韓国に対しては昔の植民地支配に対する反発に対して謙虚になれず、優越感を感じたいかのように振る舞い勝ちになっている人たちが多くなってきているのが現状であろう。

  アメリカの戦略に乗せられた政府や右翼の宣伝などの影響もあって世論調査などで見ても嫌中、嫌韓の人が多いが、現実のアジアの動向を見ても最早日本が先進国で他の国を見下せるような情勢ではなくなってきている。間違えれば、日本が置いてきぼりをくってアジアの孤児になっていく恐れも考えておかねばならない時代が近付いてきているとも見ねばならないのではなかろうか。

 遠いアメリカより近くのアジアがより重要であることは当然であろう。近いだけに交流も盛んになり、韓国や中国の実情が次第に多くの人に知れ渡ってくるに従い、偏見も次第に変化していくのではなかろうか。交流が盛んになれば、矛盾の大きくなる面も出来ようが、理解も進み知らないための偏見は減るであろう。

 どこの国でも文化は違っても人としての価値観は広く共通しているものである。どこの国にも良い人もいれば悪い人もいる。日本人も島国に閉じこもらずもっと積極的に、近隣諸国の人たちと交流すれば、お互いの理解が進むであろう。

 かって韓国から来た夫妻をもてなしたことがあるが、韓国語と日本語ではよく似た点が多いし、孔子の漢字で書かれた碑文を、それぞれの言葉で、一緒に読むことが出来、初対面であったが、たちまち打ち解けた経験がある。

 レイシャルハラスメントはセクハラより先に問題にすべきことである。お互いの国民の交流を盛んにして、個人レベルでの知人を増やすことが一番良い方法ではなかろうか。出来るだけ多くの人たちが、隣国の人たちと交流して、精神的に島国から抜け出して、近隣諸国とのもっと広い世界で多くの人たちと友人関係を結ぶのが良い方法ではないかと思う。