パラリンピック

 朝日新聞の歌壇に下記のような歌が載っていた。

   負傷兵の一人もいない日本の選手団なりパラリンピック

 迂闊だった。夏にリオデジャネイロで開かれたパラリンピックはテレビで見て、障害のある人たちが義足や車椅子で、普通の人と同じように、あるいはそれ以上に、いろいろな競技で活躍している様子に惹きつけられていたが、その選手たちの障害の原因についてまではほとんど、考えが及ばなかった。

 先天的な障害や不慮の事故で障害を残した人たちだろうと漠然と考えていただけで、戦争による障害のことまであまり想像していなかった。

 だからであろう。この歌を見て衝撃を受けた。迂闊だったと思った。これだけ世界中で戦争が戦われているのに、その犠牲者とパラリンピックの障害者が結びつかなかったことを恥じた。

 おそらく諸外国の選手団には負傷兵や戦争に巻き込まれた一般市民の障害者がいて当然である。彼らの健康な社会生活やパラリンピックでの健闘を祝福したいが、何といっても我々が自慢できることは、日本の選手団に一人も負傷兵のいないことである。

 これこそ我々が世界に誇っても良いことであろう。戦後七十年の間、「平和憲法」のおかげで、どこの国とも戦争をせず、一人の敵も殺さず、一人の国民も戦争で死なずに来たのである。こんなことは近代の世界の歴史を見ても珍しいことであろう。

 これこそは「平和憲法」のお蔭であり、世界に誇るべきものである。障害者が差別なく活躍できる社会を作ることも大事だが、障害者を作らぬ予防がまずもって必要なことは言うまでもないであろう。障害者を作る最大の出来事は戦争である。日本のパラリンピックの選手団に一人も負傷兵のいないことこそ、「平和憲法」を守り、戦争に反対して平和を守ることの大切さがよく分かる結果である。

 最近は、この国でも次第に軍備を整え戦争をも辞さないとする無謀な発言をする人たちも増え、「平和憲法」さえ変えて、戦える国にしようという策略までが頭をもたげてきているようであるが、軍備よりも外交に力を入れ、外国の圧力よりも、国民の平和を優先し、あくまで「平和憲法」を守り、東京やその次のパラリンピックでも、一人の負傷兵もいない選手団を続けられるようにしてもらいたいものである。