「くに」と国  

 いつだったかの朝日新聞に、高橋源一郎さんが日米戦争が始まった当時、アメリカに留学中であった鶴見俊輔が「日本に戻るかどうか」を問われた時のことについて書いていた。

 それによると鶴見は戦争をしようとする日本に反対であったが、「戻る」と答え、その理由として次のように記していた由である。

「日本語・・・・・を生まれてから使い、仲間と会ってきた。同じ土地、同じ風景の中で暮らしてきた家族、友達。それが『くに』で、今戦争をしている政府に私が反対であろうとも、その『くに』が自分のもとであることに変わりはない。法律上その国籍を持っているからといって、どうして・・・国家権力の言うままに人を殺さなくてはならないのか。・・・・この国は必ず負ける。負けは『くに』を踏みにじる。その時『くに』とともに自分も負ける側にいたいと思った」と。

 この『くに』というのは私たちが言う『ふるさと』の概念を広げたものである。私もふるさとの大阪や関西エリアが好きだし、愛着を持っているし、大事にしたいと思っている。それを広げたこの『くに』も好きだ。家族がアメリカにいるからといって、今更アメリカに移住しようとも思わない。もう死ぬまでこの「くに」で生きていくよりない。

 しかしだからと言って安倍政権を支持するわけではない。国民を無視して、憲法改正を企み、安保関連法案や秘密保護法を通し、原発を再稼働し、沖縄の住民の願いに反して基地移転を強行しようとし、国民の願いを無視してまで、いつまでもアメリカ従属を続ける日本政府の政策には絶対に反対である。今度の選挙では是が非でも野党連合に勝ってもらいたいと切実に思っている。

「ふるさと」や「くに」は自然に根ざしたものであり、代替不可能なものである。人々はそこに生まれそこで育ち、そこで生活を営んできたものである。好きでも嫌いでも人々はその紐帯を断ち切ることは出来ない。明治の前までは「くに」はもっと狭い範囲で考えられていた。「くに」と「いなか」は同義で用いられることが多かった。

 良くも悪くも「くに」とか「いなか」はそれぞれの人のもととも言える。その最小範囲が家族であろう。誰しも、仮に誰かが実際に家族を殺し、「いなか」を潰しに来たとしたら、負けることがわかっていても必死に戦うであろう。そこで生きてきた自分たちの土地、そこで紡がれてきた生活や文化を守りたいからである。

 しかし国は近代に出来た人工物である。代替可能なものである。現在の民主国家では我々国民が国の主人公であり、我々が選んだ政府がその委託を受けて、立憲政治を行っているのがこの国の姿のはずなのである。

「くに」が国を作っているのであり、決してその逆ではない。この建前通りなら国と「くに」にはあまり乖離はないはずであるが、安倍内閣は立憲政治自体を潰そうとして、「くに」と国の乖離は大きくなるばかりである。

 選挙をはじめあらゆる手段を通じて、民主主義を守り、少しでもこの乖離を縮め、良い国を作って国と「くに」の矛盾を極力小さくしたいものである。

 七月四日の朝日新聞の歌壇に宇治市の女性がこの国と「くに」の違いを読んだ歌が載っていたので参考までに紹介したい。

  国じゃない愛してるのは故郷の風、土、水と人のこころと