昔からこの国には四季があり、人々はそれぞれの季節ごとに自然の移り変わりを楽し
みながら暮らしてきたと言われている。
寒い冬には春を待ち、梅や桜に春を楽しみ、夏は海や山に出かけ、秋には紅葉を愛でて、やがて新年を期待して一年が一回りするわけであるが、昔から農耕は季節に大きく依存してきたので、古くから暦を作り、暦と季節を合わせる工夫をして、二十四節気など細かい変化にまで気を配ってきたようである。
今でも、冷暖房などの温度の調整から衣類、食事に至るまで季節により調整されても、やはり季節の移り変わりを感じ、それが生活の基盤を支えていることに代わりはない。季節の感覚は挨拶にも欠かせないし、それぞれの季節に合わせて四季折々の歌や句も生まれるなど、季節の変化を楽しんで、暮らしは四季と切り離せない関係を続けてきている。
ところが近年地球温暖化の影響かもしれないが、四季が少しずつ変わってきているようである。春や秋の過ごしやすい気持ちの良い季節が短くなって、次第に夏と冬だけに置き換わっていくような予感がする。
今年も桜の開花は例年並みだったが、寒い日が4月の終わり頃まで続き、日中と朝夕の温度差が大きく、この5月早々には朝は15度にも満たなかったのに昼間は30度と夏日になっていた。以来毎日のように昼間は夏日が続いている。昨年もそうだったし、今年は史上最高の暑い夏になるという情報もあるので、この夏の暑さもどうなるのだろうと今から心配させられる。
冬の寒いのも年寄りにとっては辛いが、寒い戸外で過ごす時間が少ないし、暖房が発達したので若い時より我慢もしやすいが、湿度の高い蒸し蒸しする夏の暑さが続くのには閉口する。冷房をかけすぎると気持ちが悪くなるし、扇風機も長時間は続けられない。夏の暑い間ずっと山の上の涼しい山荘にでも暮らせれれば良いだろうが、貧しい庶民にとってはそうもいかない。平地では夜まで蒸し暑くて眠れない日が続くのが何よりもかなわない。
しかも近年、夏が終わるのもまた遅くなってしまった。「暑い寒いも彼岸まで」と昔から言ったものだが、今や彼岸はどちらもあてにはならない。春の彼岸はまだ桜の開花予想などだけでも春のしるしとして許されるかもしれないが、秋は彼岸を過ぎてもまだまだ残暑が続く。昔は中秋の名月を見に行って風邪をひいたこともあったが、近頃は十月になってもまだまだ暑くて上着を着れない日が続く。
おかげで紅葉の見頃も近年はずっと遅れてしまった。若い頃に11月3日に小豆島の寒霞渓に行った時がちょうど紅葉の見頃だったことを覚えているが、近頃は箕面の紅葉も11月の終わりぐらいか、ひょっとしたら12月にかかった頃が一番の見頃になっているようである。昔病院からの旅行で12月2日だったかに京都に行った時にわずかに二、三枚の紅葉が枝に残っている冬景色だったことを思い出す。
地球温暖化の影響で海面が上がり南洋のサンゴ礁の島国では国ごと海中に没してしまうのではないかと心配されているようだし、日本の近海でも最近は南国の海でしか見られなかった熱帯魚が定着してきているというニュースも聞いた。
地球温暖化だけが原因かどうかはわからないにしても、現実の生活で次第に夏が長くなってきて春や秋が短くなってきているのは事実で、次第に四季がなくなりやがてはと夏と冬だけの二季になってしまうのではないか心配である。
冬の寒さや夏の暑さに耐えられるのも春や秋の快適さへの希望があってこそではなかろうか。希望に満ちた光の春や百花繚乱の春景色、物憂げな秋の感傷や山一面の紅葉の美しさが少なくなることは何としても寂しい気がする。やはり四季の移り変わりは希望であり、捨てがたいものがある。それが短くなってしまうことは生きがいが半減してしまうような悲しいことである。