糖尿病治療の難しさ

 先日ある中程度の大きさの建設会社に健康相談に行った時に相談された例である。

 五十歳前半の社員で、この夏に心筋梗塞になり、バイパス手術を受けて今は通常勤務可能の診断書をもらって出勤し、事務的なことだけの軽勤務にしてもらっているが、本来は道路工事が主な会社で現場の責任者としてやってきたし、今後もそのうちには現場に戻ることになっている人の相談であった。

 本人の話を聞くと、父親も糖尿があり心筋梗塞になった由だが、本人も以前から糖尿病の治療を受けており、家が遠い上、殆どが現場の仕事だったので、ずっと単身赴任を続け、不規則な長時間勤務が当たり前だったようである。

 中年過ぎの男が単身で男ばかりの建設現場で長期間過ごして居ればどのような生活が続いて来たであろうかは容易に想像がつくが、そのような環境の中で糖尿病の生活の注意などがうまく行っていたはずがない。食事も身体活動も睡眠も偏るであろうし、通院や服薬ですら思うに任せないことが多かったのではなかろうか。その挙句が心筋梗塞ということであったのであろう。

 現在の医学では糖尿病の治療には適切な生活習慣の回復や維持が基本であることが明らかであるし、糖代謝を改善する薬には多くの選択肢があり、街には糖尿病に詳しい医師も多い。今では、糖尿病は完治する病気ではないが、コントロールは可能で、それを維持すれば糖尿病があっても予後は普通の人と差して変わらないものだとされている。

 糖尿病のコントロールが悪いのは本人の責任で、生活態度や治療の仕方が悪いからだ。自覚を持って生活を改め、真面目に治療を受ければ必ず良くなるものだなどと言われることも多い。

 それならばここで出会った人も本人が努力さえすれば今後うまくいけるだろうか。病院や診療所で診て問題とされる糖尿病の人は社会生活から切り離された個人である。こういう半ば抽象化された個人だけを対象とするならば、生活の注意を説き、適切な投薬をし、本人がそれを守ればうまく行くはずである。生活の注意も具体的に何をどれぐらい食べ、どのように運動を取り入れたら良いか微に入り細をうがって教える態勢も整っている所も多い。

 しかし、実臨床ではいかに努力してもなかなか効果が上がらないのが普通である。人は社会のいろいろな制約のもとで生きており、自分で思うように振る舞える空間や時間は限られている。人々はその中で生活し、病気に対処しているのである。病気は個人に現れてもその根ざすところは広い社会である。個人の努力には限りがある。

 この人も今は軽勤務で食事も糖尿病用のパックになった食事を買って食べてたりして気をつけているし、残業も免除してもらっているので定時に帰れる。通院も欠かさず行っている由である。バイパス手術の傷も癒え糖尿もコントロールされて落ち着いている。

 しかし本来の職場である現場の仕事にに戻るとどういうことになるであろうか。責任者になるので予め名前を登録しなければならないようで、一旦登録するとそこでの仕事が終わるまでずっと責任を負うことになり、長時間の不規則勤務で、それに伴う不規則な食事や睡眠時間が続き、食事の内容を選ぶわけには行かなくなる。外部との折衝や部下や下請け労働者などとの付き合いもありストレスも多い。通院も隙間を抜って行かざるをえなくなる。

 そのように決められている生活で、必要な生活習慣を守り治療を適切に続けていけるだろうか。出来るだけ現在の事務的な仕事ですむ期間を長く保つより方法はなさそうだが、本人の心配はあまり仕事の制限があり現場にも出れないとなると、そのような人は会社は要らんと言われはしないかという。それも当然なことであろう。

 定年にはまだ間があり、家庭的にももう少しは働かなければならない立場なのでどうするべきか難しい。大きな会社であれば負担の少ない部署に変わって定年まで何とか過ごすことの出来る余裕もあるかも知れないが、競争が激しくてゆとりの少ない中小企業となると社内での融通も利きにくい。

 会社の健康管理の責任者には仕事は普通に出来るが、糖尿病の管理が出来ず、不規則な長時間勤務が長期間続くようなことは心筋梗塞の再発につながることにもなり危険な旨を伝えておいたが、果たしてどういうことになるやら不安である。成人病とか生活習慣病とか言われる病気はその人の生活に密接に結びついているものだけに、個人より社会生活の習慣に依存していることが広く理解され、その対策が講じなければ解決できないものである。