果たして地方創生なるか

 最近政府の肝いりで地方創生という言葉をよく見たり聞いたりするが、その度に地方創生など今更本当に出来るのかと首を傾げざるをえない。余程地域を限定しないと、多くはもう手遅れではなかろうか。

 政府が具体的にどうしようとしているのか詳しいことは知らないが、政府は人口の急減、超高齢化に対する対策の一環として、地域の特徴を生かした自立的、持続的な社会の創生を目指して、「まち、ひと、しごと創生本部」を設置して施策を進めていくことにしているようである。

 しかし現実に地方の町や村を見るごとに、何処へ行ってもすでにどうにもならないぐらい過疎化が進んでしまっている実態を感じるばかりである。

 今やもうかなり大きな地方都市でも昔の活気はなく、駅前でも閑散とし、決まったように商店街は”シャッター通り”となり、老人ばかりで若者の姿は稀である。シャッターが閉められている店だけでなく、壊されて駐車場になっていたり、空き地のまま放置されていて、あちこち歯が抜けたようになっている。少し裏道に入ると、もう人の住まない荒れた家や、潰れかかった家を見るのも珍しくない。

 数年も前のことになるが、兵庫県の小野市で見た光景もひどかった。歴史も古く神戸電鉄も通じている町なのに、商店街は上で述べた通りのシャッター通りだし、駅前も道路は整備されているのに、取り付く島もないが如くに閑散としてほとんど人も見かけなかった。

 そこへ老夫婦が車で駅前まで来て、老婆が降り、手押しのショッピングバッグを引きずって駅へ入っていった。もう日用品を買うのに商店街もないので車で駅まで送ってもらい、電車に乗ってどこか、新開地あたりまででも買い物に行くのであろうか。駅の近辺にはコンビニすらなく、食堂の類も一軒も見つけることができなくて困った。

 その日は小野から高砂線まで歩いたのだが、町をはずれて街道筋を行くと町外れにコンビニがあった。そこで驚いたのは平日の昼間なのにそのコンビニの流行っていることであった。多くの客が単車で乗り付け食料品や野菜などを買って帰っていっていた。

 町が寂れた上に、人口密度などから近くに大型のショッピングセンターもないのであろうか。こういう所では郊外のコンビニが町の人たちの日々の日用品の主な供給場所になっているような感じであった。昔だったら近くの商店街で済ましていた日々の暮らしの買い物も今では郊外の街道筋のコンビニへ行くのが一番便利になっているのではなかろうか。

 ただし単車や車のない年寄りはそうはいかないであろう。駅前で見た老婆のように駅まで送ってもらい、電車にのって隣町まででも買い物に行かねばならないのであろうか。田舎で年を取り車の運転ができなくなると途端に都会と違って、日々の生活が不自由になってしまうようである。

 老人ばかりの町で人口も減り若者も少ないとなると自治体の老人対策も非効率となり難しくなる。朝夕二回だけの福祉バスなどを運行してもそれだけでは日々の暮らしの足としては不十分だし、経費の割にあまり住民の助けにならない。

 こうして不便な田舎に放置された独り住いになった老父や老母を放置しておくわけにもいかないので東京や大阪にいる息子などが呼び寄せて同居することになる。

 そのため今度は東京などでは老人の転入者が増え、それに対応する医療や介護設備が間に合わず、今や地方創生の名の下にCCRC(Continuing Care Retirement Community)といった切れ目のない介護を効率よく出来る総括的な介護のコミュニティを地方に作って老人の流れを押しもどそうという案まで考えられているようである。

 仮にこのような施策が成功したとしても、潤うのはせいぜい一部の地方の中核都市までで、それ以外では特別な観光資源や特別な条件もない普通の町では余程のことがなければ過疎化の傾向は悪循環でますます進むことはあっても、それを食い止めることはもはや不可能なのではなかろうか。

 四月二〇日の朝日俳壇に「雪とけて村いっぱいの媼かな」という句が載っていた。「雪とけて村いっぱいの子供かな」という一茶の句からきているのだが、ひしひしと時代の変遷を感じさせられる。人口が減り、子供が減り、減った子供が都会に出て行けば、田舎はますます過疎となり、老人だけが取り残されることになる。

 一月ばかり前に瀬戸内海の「風待ち、潮待ち、湊町」と言われて昔は舟行の要衝として栄えた下大崎島の御手洗(みたらい)という古い町の見学へ行ったが、そこでは町ごと古い町並みを保存し観光で町おこしをしようと努力しており新聞でも紹介された。

 古い建物には手を入れ、昔栄えたお茶屋から、昔の船宿、お屋敷、藩の宿舎などの古い家並みから昭和の映画館や眼鏡屋さんまで、どこも手を入れて大切に保存し、道に面した格子窓には短冊に花を添えた簾なども所々に配し、一所懸命に観光に力を入れている様がよくわかるが、地の人の話では人口が一頃は 五百人いたのが今はもう二百人に減ってしまったそうである。

 二百人になってはもう街の姿を維持することすら難しくなって来ているのではなかろうかと他人事ながら心配になった。昔のお茶屋などは建物の中まで見学出来るようになっており、中には栄えた頃の戦前の写真や古い資料などが沢山展示されている。建物にも手を入れ観光客用に改造された立派な水洗便所まで備え付けられているが、ここには番人が誰もいなかった。

 町中の古い建物も空き家が多く、傷みのひどくなってきているものも多い。これでは折角皆で整備して観光地に育てようとしても、住人がいなくては今後これをいつまで維持していけるか心もとない。こうなっては折角の資源があっても、これを地方創生に結びつけるのは困難なのではなかろうか。創生どころかいつまで今の姿を持ちこたえられるだろうかと思わざるを得なかった。

 テレビでもやっていたがどこの農村へ行っても打ち捨てられて草茫々の田が多いし、密柑山や棚田も荒れ果てたままである。農業を継ぐ若者も今では稀といっても良いぐらいだそうである。

 このように見てくると、政府にどんな成算があるのか知らないが、ここまで進んだ人口減、少子化、高齢化と政策の誤りで荒廃してしまった地方を今更生き返らす手があるのだろうか疑問に思われて仕方がない。