基準値の設定

 最近はどの分野に於ける測定でも客観性を重んじて基準値が決められるのが普通である。しかし基準値はあくまで運営上便利な目安に過ぎず、全体像の中での位置付けをはっきり意識しておかないと基準値が一人歩きして本来あるべき姿が基準値によって誤って評価されることにもなりかねない。

 最近は医療の分野では何から何まで数値で示され、それについての基準値が示されることが多い。血圧なら135と85以上なら高血圧だ。血糖なら125を越えていたら糖尿病と言ったようなものである。いわゆる臨床検査の種類も多いので、そのそれぞれの基準値が決められており、いわば基準値だらけである。

 一応基準値のようなものを決めておかないと、正常や異常、健康や病気を区別したりするのに不便である。皆が大体納得がいきそうな値を基準としてそれを元にして議論するようにしないと話も通じにくい。

 そういう点で基準値は役に立つ。しかし実際の値は生きて生活している多くの人たちの平均的な姿を表したその時点での数値なので始終変化しているし、血圧のように変動の激しいものからあまり変化しないものまでいろいろである。同じ基準値といっても数値によって由緒来歴はいろいろである。基準値から離れた値であっても、値が上昇中で基準を超えたのか、低下の途中かなどのよっても判断は違ってくる。それぞれの基準値の作られた背景も理解して判断しないと基準値だけでは判断を誤ることがある。

 基準値とはそういうものである。しかし一度基準値が数値で示されると何かしっかりした不動の拠り所があるかのような気がし、権威によれば無難だという安易さが働きやすい。こんなところからつい基準値がいつの間にか一人歩きして権威を持ち、区別の絶対的な基準のように思われがちである。

 ことに利用される測定結果の数値が多くなればなるほど、一つ一つの値の詳細へのこだわりが薄くなり、示された基準値を頼りに判断したほうが便利であり、大きな誤りにつながる恐れも少なくなるだろうという安易さから、どうしても基準値を頼りに全体の判断にさえ進むことが多くなる。

 しかし、こう言った基準値も臨床検査の結果を読むような時にはまだ良いが、これが過重労働などによる労動災害に絡んだ補償問題などとなると、基準値と比べてどうかということがその人のとって重大な影響を与える結果ともなりやすい。基準とされる労働時間や労働負荷などについては慎重に全体像を考えに入れて判断しなけれが正しい解決に結び付かないことにもなりかねない。

 過重労働による労働災害補償については初めは直接因果関係が明らかなものしか認められなかったが、災害の性質上もっと過去に遡って労働時間や過労との関係を見なければならないことが明らかになり、過去1ヶ月の過重労働が80時間を超える場合を一応の基準とすることなどが決められた。

 しかし過重労働と其の結果の労働災害過労死、脳血管障害、精神障害などとの関係は単に労働時間だけで決まるものではなく、精神的肉体的な仕事の負担の複雑な総合的結果であり、80時間という基準だけで全て判断できるものではない。

 仕事の内容も負荷の程度も一人一人で皆異なるので、一応基準を作って大まかにしてもそれに当てはめて公平な判断に努めるべきであるが、事実は複雑であり、基準値以外にも多くの要素が絡むことを念頭においておかないと、実際の適応にあたって公正なは判断を誤ることにもなりかねないことも知っておくべきであろう。