道徳教育

 いよいよ小中学校で道徳教育が教科として教えられる事になるらしい。

 私らの子供の時には修身と言われていたが、敗戦の間もない頃まだ闇米でも買わねば生きていけない飢餓の時代にたまたま卒業した中学校へ行った時の事を思い出す。教員室で教師たちがストーブで暖をとりながら雑談をしていたが、その中に修身を教えていた先生もいて「わしら修身など教えたが、今時そんなこと守っていたら生きていかれへんわ」と話していたのだった。

 人の価値観や倫理観に絶対なものはない。それをどれかに決めつけて教えても時代が変われば一夜にして無価値どころか有害なものにもなりかねないことを教えてくれている。戦後の飢餓の時代に「裁判官が法を破って闇米を買うことは出来ない」と潔癖さを守ってついに餓死した真面目な裁判官がいたことも覚えている。法ですら生存を優先させねばならぬこともあるのである。

「この道しかない」という他の選択肢をすべて断ち切るのはファシズムへの道である。ましてや教育の現場に唯一無二の権威を押し付けることは教育の否定にもつながりかねない。

 最近の朝日新聞のオピニオン欄に、道徳教育を押しつけられた教師側の対応として、ある教育者が述べているのは、「お揃いの教材を読むことであらかじめ設定された答えを教え諭すのではなく「考える」というプロセスを通じて子供たち自身にその解を導きださせるようにしていくべきで、教師はファシリテーターとして子供の意見を尊重し、答えを一つと定めず、多様な視点を出し合い、受け入れながら本質を教室全体で探っていく育みが求められる」と。

 しかし実際の教育現場で、それだけ時間をかけて道徳教育をする時間的空間的な体制を現実に確保しようとしているとは思えない。専門家には好きなことを言わせておいて、実際にはその都合の良い所だけをつまみ食いしようとしているのが官僚のやり方の常で、とてもこのようなことが現場で実行されるとは思えない。結局あらかじめ決められた答えに子供たちを誘導することにしかならないのは明らかである。

 教科は評価につながるので教師の誘導によって望ましい回答が容易に得られるであろうことは明白である。忙しい教師には道徳教育にまで時間ををかけるゆとりが考えられるであろうか。再び子供にもわかる現実離れした修身が頭から押し付けられることになるようで子供がかわいそうである。