原爆とイソップ物語

 インターネットにある芸人さんがアメリカでは広島への原爆投下について半数の人が戦争を早く止めさせるための正当な手段であったとしていることを聞いて涙を流して悔しがり、加害者のアメリカに理解してもらい謝ってもらわねばならないと言っている話がのっていた。

 その芸人さんでなくても、客観的に見て原子爆弾の投下は人類の名においても正当化できない野蛮な行為である。ましてやその被害者であり、その悲惨な犠牲者を見てきた日本人にとっては決して許せることではない。加害者を告発し、いつまでも語り継がれねばならないことである。

 しかし、原爆の被害を考える時には、ちょっと視点を変えてみて、この戦争の被害者の面だけでなく、日本が加害者となって侵略した中国や植民地として苦しめた韓国の被害者の人たちのことも考えてみる必要があるのではなかろうか。

 彼らが南京事件慰安婦の問題などの被害をどう思っているか。私たちが原爆の非人道的な行為に怒りを感じると同じように、彼らも当時の日本軍の行為に怒りを感じ、私たちと同様に犠牲者を弔い、この悲劇をいつまでも後世に伝えたいと思っても当然ではなかろうか。

 どちらからも筆舌に尽くせぬ被害を受けた者の痛切な悲鳴が聞こえて来るが、加害者の方はどうだろう。日本政府は出来るだけ自己を正当化し、侵略も仕方がなかった、慰安婦の強制連行もなかったなどと言い訳をして、少しでも早く過去のことを忘れてしまいたい様子である。

 同じようにアメリカも、公式にも非公式にも、原爆の犠牲者に哀悼の意は表しても、原爆投下は戦争墜行のための当然の行為であり、すでに過去の出来事として忘れ去られようとしている。

 イソップ物語に少年たちが池のカエルに石を投げて遊ぶ話があるのをご存じでしょう。そこでは子供たちにとって石投げは軽い気持ちの単なる遊びに過ぎないが、カエルにとっては自分たちの生存に関わる重大事件なのである。子供は家へ帰ったら遊びをすぐに忘れてしまうだろうが、カエルにとっては石に打たれて殺された同僚のことを何時までも忘れることが出来ないであろう。

 加害者はすぐに忘れても被害者はいつまでも忘れられないのである。原爆の被害を訴えそれを理解してもらうためには、南京事件慰安婦の問題などで代表される日本の侵略によってもたらされた被害にも深く思いを致し、それに真剣に向き合った上で、共に野蛮な戦争に反対しなければならないのではなかろうか。