もう12月8日といっても何の日だったか知らない人が多くなったのではなかろうか。知っている人でも日本が戦争を始めたのはこの日でなく、それよりはるか前の少なくとも昭和12年7月7日の支那事変(日中戦争)から戦争は続いており、言わばその結果としてこの12月8日の米英両国に対する宣戦布告が行われた歴史の流れを認識していない人がいて驚かされる。
日中戦争の間は宣戦布告をせずに戦争をしていたので日本政府は戦争でなく事変としていたのである。その間、日本軍は中国に侵入し各地を占領し、その過程で南京を占領して南京事件なども起こったことは大抵知られているが、それと太平洋戦争との繋がりがあいまいで、「日本は太平洋戦争でアメリカと戦争して負けた」と思っている人が案外多いように思える。
当時の日本は中国についで東南アジアまでを占領し、日本を盟主とする大東亜共栄圏と称する地域ブロックを作ろうという野心を持っていたので、この戦争を大東亜戦争と称していた。戦後アメリカの呼称に従って日本でも一般に太平洋戦争と言われるようになったが、アメリカにとってはヨーロッパ戦線に対する太平洋戦線でよいが、日本から見れば元々の始まりであるアジア大陸ことに中国での戦争が抜け落ちてしまうことになりかねない呼び方で、それが上記の誤った認識にも関係しているように思われる。
どういう呼び名が適当かはわからないが、満州事変から事実上続いて昭和20年の敗戦日に至るわけなので十五年戦争という言い方もあるようだが、太平洋戦争というよりは全体をカバーしているようでよいかも知れない。
それは兎も角、日本は欧米諸国の反対を押し切り、国際連盟を脱退し、中国を侵略したが抵抗が激しく、欧米諸国の中国に対する援助もあり、どうしても降伏させることが出来ず、欧米の日本に対する圧力も強まり、それを打開するために米英という先進国を相手に無謀とも言える戦争を始めたのであった。
昭和16年12月8日、私は中学一年生であった。大日本帝国の神がかりな教育に純粋培養された軍国少年であったが、朝方の「本日未明帝国陸海軍は西太平洋において米英両国と戦争状態に入れり」という大本営発表を聞いて、頬が引き締まる思いがしたことを今でも覚えている。これで米英をやっつけてしまえという勇ましい感じとともに一抹の不安感もよぎったような気がする。
それまで4年もかかって中国を攻めても中国は降伏せず戦線は次第にこう着状態たなっていた上、ノモンハン事件では当時の日本の精鋭部隊である関東軍がソ連の大規模な機動部隊に取り囲まれて、日本の小さな軽戦車しかない歩兵が苦戦したとかの噂もあり、その後武器の改良が進んだと言われていたがまだそれから二三年しか経っていない。そんなことで先進国の大国であるアメリカやイギリスに勝てるのかなという漠然とした不安であった。
それでもその後、緒戦の真珠湾攻撃、香港攻略、マレー半島、ジャワ島などの勝利の報道を次々と聞いて不安もすっかり飛んで、欣喜雀躍、米英何ものぞと元気になった。大本営発表以外詳しいことは分からなかったが、行け行けどんどんと国と同じに勇ましかった。
しかし、その頃母方の祖母は「日本がアメリカのようなあんな大きな国と戦争して何が勝てるものかね」と言っていた。軍国少年だった私は婆さん何を言ってるのか、日本は勝てるに決まっているじゃないかと根拠もなしに怒ってみたりしたものだったが、老人の言葉は現実を知っていただけに強かった。伯父やその親戚に貿易をしている人がおり、アメリカとの往来もあったので、祖母は彼らから話を聞いて普通の人以上にアメリカについて知っていたのである。
いろいろあっても、その頃はまだその後の悲惨な空襲や戦争の結末、戦後の過酷な生活などは知る由もない、まだ向こう見ずの元気が通用していた頃で、大日本帝国の戦争時代しか知らなかった私の少年時代の中では、ある意味では懐かしい青春の時代であったとも言えよう。