道徳教育

「もう一度日本」などといって戦前の日本の復活を狙っている政府は最近学校で道徳教育を正課にして力を入れようとしている。

 我々大日本帝國で教育を受けてきたものにとってはちょっと待ったと言いたい。「道徳」といえばすぐに「修身」を思い出す。道徳教育というのは国に都合の良い行動を押し付け、国に都合の良い人間を育てようとする意図が見え見えで、名前は違っても戦前の「修身」そのものである。

「修身」といえば私がすぐに思い出すのは、戦後間もない頃に何か用事があって卒業した中学(今の高校)へ行った時のことである。まだ空襲の焼け野が原が残っている頃で、教師たちが職員室で唯一のストーブの周りに集まって暖を取りながら雑談をしていた。

 その中に「修身」の先生もいて、その先生が言った言葉が忘れられない。「わしら修身など教えたが、今時そんなこと守っていたら生きていかれへんわ」と。当時は食糧事情も極端に悪く、闇米を買い出しに行ったりして非合法的に食品などを手に入れなければ生きていけない時代であった。ある真面目な裁判官が立場上闇で米を買うわけにもいかず遂に餓死したという事実さえあった時代である。

 そもそも道徳というのは個人の自然な本能、自己保全の欲求、種々の欲望などの利己的、本能的欲求と正義、真理、愛、誠実、信頼、平等などといった普遍的ないし社会的諸価値の対立、ないし現実と理想の相克を調整し社会的成員としてふさわしい行為を選択するように仕向けるもので、個人的な価値観にも依存し、その社会、歴史によっても変わる普遍性とともに多様性も秘めているものである。

 道徳感が国の文化、宗教、習俗、習慣によって異なることはよく知られたことである。嘘をつくことが悪いと多くの人に是認されている規範もあれば、動物を殺して食べるべきでないとする規範の所もある。同性愛や人種差別、受動喫煙なども時代とともに変わった規範である。

 こういった多様性のある道徳を一つの規範に決めてそれを守らせようとしてきたのは昔から専制君主であり、全体主義の独裁者である。日本の戦前の「修身」もまさにこの範疇に入る。

 道徳教育を押し付けるのはファシズムと言って良いのではないか。道徳は多くの人々の価値観がその時代の社会の中でぶつかり合って自然に一定の合理的なところに落ち着いてできるもので、為政者が一定の価値観を頭ごなしに押し付けるものであってはならない。

 大人が守れない道徳を子供に教えても子供を混乱させるだけである。