戦争責任を振り返る

 映画監督の伊丹十三を憶えておられる方も多いと思うが、そのお父さんで大江健三郎の義父でもある伊丹万作も戦前に映画監督をし、脚本やエッセイなども書いた多才な人だったようである。この人が戦後に多くの人たちがずっとわれわれは政府に騙されて来たんだというのを聴いて戦争責任について話っている文章がある。どこかでみてPCに保存していたが、読み直してみると、ことに戦争を知らない今の若い人たちにも是非一度読んで欲しいと思い、ここにコピーしておくことにした。

『・・・・つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。

 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜(ぼうとく)、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。』

 戦前の大日本帝国軍国主義政府による東洋平和、八紘一宇、忠君愛国、大東亜共栄圏、国民精神総動員、大政翼賛、天佑神助、鬼畜米英など色々な言葉に乗せれて大勢の赴くままにずるずる引っ張られて、耐乏生活の末に空襲に怯え、国中焼け野が原になり、大勢の肉親を死なせ、挙げ句の果てに原子爆弾を落とされ、敵の上陸による最後の決戦と鞭打たれてやっと敗戦。

 生き延びた人たちにとってはこの戦争は、この苦労は何だったのかと振り返らざるをえなかった時に多くの人たちが騙されていたと感じたのであった。そういう状況での伊丹氏の感想なのである。

 この反省と現在の憲法九条が風前の灯火のような感じとなり、秘密保護法が通り、集団自衛権行使が憲法を無視して進められ、経済優先で原発事故の処理も済まないうちに原発再稼働が企てられ、世界規模で自衛隊が米軍に協力出来るようにするなど、もう一度日本とか言ってまたいつか来た道へ進みそうな社会情勢の中で、ただ流されているだけでは、おそらく「今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めている」ことになるのではなかろうか。