皆既月食

 昨夜は夕刻六時半頃から夜の九時頃まで三年振りかと言われる皆既月食を見た。初めはベッドの窓辺りから見ていたが、後半はベッドに横たわって窓越しに目をやった。昨夜は雲も殆どない晴天だったので良く見えたし、丁度風邪を引いて一日静養していた日だったのでゆっくり観察することが出来た。

 月食は日食と違って皆既といっても3年ぐらいごとに起こり、月が出ている限り地球の何処からでも見られるのでそれほど珍しいものではないが、それだけに返って世間もそれほど騒がないし、またの機会にでも見れるだろうと思って忙しさにかまけて見るのをパスしてしまうことになりやすい。

 そんな訳で私は八十六年も生きてきて、その間に何回皆既月食があったのかは知らないが、これまで知識はあっても、まともに向き合って観察したことが一度もない。今回が初めてであった。

 もう暗くなった六時半頃、隣家の屋根から顔を覗かし始めた月ははや下方が少し欠け始めていた。その後次第に影が上の方まで拡がっていくにつれ、半月が三日月になり、更には新月ぐらいにまで細くなって、仕舞いには本当の皆既月食になっていった。

 ただ普通の三日月などと違い、真下を向いたような三日月で、三日月としては落ち着かない。それに言われているように、影になった部分がまったく消えてしまうのではなく、淡い色だが赤黒い色が残っていて、全体としては丸い月の影を残している。

 それにあまり書かれていないようだが、月の光が弱くなるので光のフレアが減り、月が立体感を増すことを発見した。いつも見る月は明るく全体が同じような光の強さに輝いているので、立体というより黄色い円盤のような印象が強いが、月食の時の月は光が少なくまだ光っている部分と影になっている部分の違いが見えるためか、月が球形をしていることを改めてはっきりさせ、より繊細な美しさを感じさせてくれた。

 それにしても、ずっと続けてこの皆既月食の美しい月に見入っているうちに、いつしか日常の煩雑さや地上の人々の争いなどとはまったく次元の異なった雄大な宇宙の世界の動きの中に没入していき、その広大な時間と空間の動きと、その中での些細な地球上での人類のあがきともいえるその歴史や地理との関係をあらためて認識させられ、雄大な宇宙の存在に、原始の人々と同じであろう何か畏敬の念のようなものが湧いて来るのを止めることが出来なかった。

 月を眺めることはストレス解消のためにもなるであろう。人は長く生きていても、まだまだ経験すべきことはいくらもあり、最後までその僅かでも獲得したいと望み、それを楽しみ、また思い出しながら束の間の生を終えて行くことになるのであろう。