アートは消費

 毎年秋は美術の秋とかいって、どこもかしこも美術展で大賑わいである。専門家たちの美術館などでの大掛かりな美術展から、素人の画廊などを借りてのグループ展や個展まで数え上げれば切りがない。

 もともと人はヘタでも何かで自分を表現したい欲望をもっている。それが文章となり、絵となり、音楽となる。手芸や園芸、果ては落書き、いたずらにまで通じるものである。

 働き盛りで忙しい時には仕事に忙殺されて自分を省みる暇のない人も多いが、それでも人は何らかの方法で仕事以外にも自己を表現しているもので、それがうまくいかないとうつなどの精神的な問題をおこすことすらある。

 ましてや昨今のように人が長生きするようになって、老後の時間的なゆとりが出来ると、自然と何らかの形で自己を表現したい欲望が沸き上り、もう少し纏まった表現をしたくなり、それが老後の趣味となって現れる。

 そんな高齢化社会の風潮を商売人が見落とすはずもない。人々の希望をうまく取り込んで、そのための素材や機会を提供して一儲けしようとすることになる。趣味の裾野も広いので、その道具や素材、機会や場所の提供など、個々の金額は僅少でも合算すれば膨大なものとなる。

 昔は音楽や演芸、娯楽に結びつくようなものを除けば、金に糸目をつけないような資産階級や一部の好事家に限られていた感のある美術関係の商売も、今やひとつの大きな産業分野になった感さえある。昔の有名な書画骨董などの値段は天井知らずだし、美術界をめぐる金銭の動きも莫大なものになる。

 音楽などを除いても、今や動画やアニメなどの分野と絵画的表現との境界も曖昧になって来ている。人を集めるにもアートが使われ、学校や医療福祉関係も美術の取り込みを拡げている。昔からの手芸その他の個人的な趣味まで加えるとアートの周辺も広く、これら全体を合わせると膨大なものになる。

 現在の新自由主義的資本主義の世の中では、これらがすべて市場に乗せられることとなる。時とともにアートも大量生産され、宣伝され、消費され、捨てられ、更新されることになる。関係する人々は嫌でもその中で競争させられ、消費されていく運命から逃れられない。

 後の時代まで残る様な作品はほんの僅かにすぎない。殆どのものは消費され、捨て去られるだけである。 考えてみれば、表現はどんなものでもその時代、その社会に生きる個人の表現である以上、多くの物は時代に生き、時代とともに消え去るものであろう。最近多いパーフォーマンス型の表現などを見るとよく分かる。

 今年の横浜トリエンナーレでは外国の作家による高さが2メートル以上もある巨大なゴミ箱の作品が作られ、そこに持参した自分のアート作品を投げ入れられるようになっているそうである。直接見たわけではないので作者の意図などは分からないが、何か現代のアートを象徴しているような気がする。ニューヨークのMOMAで最近行われた催しでも同じようなことがあったようである。(写真

f:id:drfridge:20141104061154j:plain

 専門家と称する人たちのアートでさえこのような傾向なのである。ましてやアマチュアの趣味の領域と言えるようなアートの運命はまさに消費である。道具を集め素材を揃え、作品を作り一喜一憂してはお蔵入りし、やがて捨てられることになる。

 同好の諸氏よ。自分が作った物は自分が楽しみ、周囲を楽しませればそれでよいと考えよ。もちろん私の作った物や作るものも含めて、決して自分が死んだら必ず捨てられる運命にある。自分が楽しみ、自分とともに消え去るものと割り切るがよい。結果でなく過程こそが大切な人生の中の出来事なのである。