いじめはなくならない

 1986年だったかにいじめを気にして中学生が自殺した頃から学校でのいじめが問題となり、文部科学省もその対策に乗り出したが、表面的にはともかく未だにいじめの問題は解決には程遠い。

 いじめは昔からあったもので子供にいじめはつきものだというぐらいに鷹揚にみられていたのが、そのために自殺者まで出るとなれば放ってはおけないということで取り上げられるようになったものである。

文部科学省のいじめの定義は以前は

「①自分より弱いものに対して一方的に、②身体的、心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもので、起こっている場所は学校の内外を問わない」とされていたが、

 平成18年の調査から、いじめられた児童生徒の立場に立って行うとして、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」とされた。

 いじめはどこでも見られるが、平成24年の文部科学省の調査結果によると、全国の国公私立小、中、高、特殊学校全体のいじめの総数は144,054例に及んだ。その中で生命の安全が脅かされる事態にまで至る恐れのある件数は総計278例で、予想されるごとく中学校が最多で170件になっている。

 これに対して文部科学省は各学校に対して、児童生徒等が発する危険信号を見逃さず、問題を隠さず、早期の適切な対応を重視し、「いじめは人間として絶対に許されない」との意識の徹底、子供の主体的な取り組みの促進などで、いじめを許さない学校づくりを指導している。

 ところが、いじめ問題の難しいのはいじめが学校だけにに限ったことではないことである。最近は職場でのいじめもパワーハラスメントなどとして問題になっていることでもわかるように、「人間として絶対に許されない」いじめが子供の間だけではなく、大人の世界でも昔から広く見られることである。

 どうも人間関係の中でいじめは普遍的なもので、「人間として絶対に許されない」いじめを人間が本来の特性のなかに秘めていると見ざるをえないのかも知れない。そうなると本来子供に手本を示すべき大人がやっていることを子どもの世界だけでなくそうとしても無理だということがわかる。

 さらに大人の世界でも、いじめは職場などだけでなく、世界中に広がっているものである。世界の政治の世界を見てもわかる。ごく最近も「イスラム国」とやらが悪いから潰さなくてはとアメリカが言い出し、それに多くの国が同調させられ、それをたたくためといって独立国であるシリアの国にある「イスラム国」の施設を爆撃している。そこに住む普通の住民にとってはたまったものではない。

 同じようなことはイランや北朝鮮に対する経済制裁アフガニスタンイラクでの理不尽な戦争など、数え切れないぐらいある。日本もアメリカの手下として同調しているばかりでなく、アメリカへの同調の仕方が足りないからと、憲法を変えてでも「集団的自衛権」などを拵えて、より積極的に参加しようとしている。

 これはまさに国際的ないじめである。上の文部科学省のいじめの定義と照らし合わせてみると如何にによく当てはまるかがわかるであろう。

 世界中で大人がいじめを大々的にやっている中で子供にだけ「いじめは良くないから止めなさい」と言っても、子供にもそのインチキはすぐに見破られてしまうであろう。いじめの問題の根は深いのである。

 大人が、また世界の国がいじめをやめて、国同士がお互いに相手を尊重し、真の国際的な協調を果たし、あらゆる人間の尊厳を守り、平和な世界を続けた上で、子どもたちにも平和教育とともに「人間として絶対に許されない」いじめについても教えていくのでなければ、いじめの問題を基本的に解決することは出来ないのではなかろうか。

 それまでは子供のいじめが残酷さを増さないように祈るしかないのかもしれない。