最後の晩餐

  私が生まれたのが昭和三年。この年は日本の関東軍張作霖の乗った列車を爆破した年で、翌年には世界の大恐慌がおこり、昭和六年には満州事変が勃発、やがてそれが日中戦争から第二次世界大戦へと続くこととなる。そして昭和二十年の敗戦の時に十七歳だったので、私はこの戦争の真っ最中に大きくなったようなものである。

 子供の時から教育勅語や忠君愛国、富国強兵、東洋平和、万世一系の天皇などとともに、今は非常時だ、贅沢は敵だ、欲しがりません勝つまではと我慢することばかり教えられた。二宮金次郎が倹約の象徴で何処の学校にもその像があった。

 女性のパーマネントも贅沢だと言われ、子供たちが「パーマネントに火がついて見る見るうちに禿頭、禿げた頭に毛が三本、ああ恥ずかしや恥ずかしやパーマネントは止めましょう」という歌を歌ったこともあった。

 その後戦争の進むとともに物資の欠乏は次第に顕著になり、やがて大きな都市は殆ど空襲で焼け野原になり、米は一日二合一勺の配給制になり、足りない分を運動場を潰してサツマイモを作ったり、垣根にカボチャを植えたりして補ない、箸の立たない雑炊をすすったり、イナゴや芋の蔓まで食べて飢えをしのいだ。戦後はさらにひどく、職業柄か闇米を買わないで飢え死にしてしまった真面目な裁判官もいた。

 そんな時代に育つたので、今の物資が有り余り、まだ使えるものまで惜しげも無く捨てられる世の中に未だに心の何処かでどうしても抵抗を感じる。買い物をして貰ったショッピングバッグや箱、包み紙などはどうしても捨て難い。余ったペットボトルの水も持って帰ることになるし、食べ過ぎになると分かっていてもつい残すのがもったいない気がして食べてしまうことになり勝ちである。

 贅沢な食事会や音楽会、オペラなどを見ている途中に、時にふと至福を感じるとともに、なにか相済まないような後ろめたさのようなものが心を掠める瞬間がある。そんなに強いものでもないが、おそらく戦中戦後に惨めに死んで行った身近な人のある人たちの感じる強い罪悪感に通底するものかも知れない。

 思いだせば日米戦争が始まる少し前頃であったであろうか、父がもう今後は出来なくなるであろうからと、子供たちを天満橋にあった野田屋という西洋料理店に連れて行ってくれたことがあった。久しぶりの洋食に皆喜んだが、本当にそれがわれわれの戦前の良き時代の「最後の晩餐」となり、その後そんな贅沢は許されず、次第に過酷な戦時生活になってしまった。大阪も焼け野原となり、以来野田屋の名前を聞いたこともない。

 現在は何でも手に入る、私に言わせれば、贅沢な時代である。しかしそれも少し見れば薄氷の上に乗っている感じがないでもない。国の財政は大幅な赤字であるし、貧富の格差は広がるし、民主主義は次第に形骸化しつつある。その上、最近は急速に秘密保護法、集団的自衛権憲法改正、などが現実のものとなりつつあり、長く続いた平和の世も再びいつか来た道に辿りつつあるような気さえする。

 折角これまで保たれてきた平和な世の中をなんとか続けて、再び今の時代の「最後の晩餐」などの来ないことを願うばかりである。