日中戦争(支那事変)の頃

 盧溝橋事件を契機に日本軍がまたしても中国で軍事行動を起したのが1937年、昭和12年7月7日のことであった。私が小学校3年生の時であった。政府は始めは不拡大方針と言っていたのにいつしかどんどん拡がり、そのうちに「蒋介石は相手にせず」などというようになり、戦争は広範におよび、宣戦布告なき日中戦争となった。

 日清戦争日露戦争は戦争と言われていたのに、今度はどうして戦争と言わずに事変と言うのか不思議だったが、海の向こうの戦争で、直接日常生活への影響はまだ殆どなかったので戦争というものがどういうものか分からなかった。

 「東洋平和のため」と言われても平和と戦争の矛楯がわからなかったし、「満州は日本の生命線」といわれたが「日本から遥か離れた所にある満州がなければ日本はどうして生きていけないのか」子供心に不思議に思った。

 それでも、村からの出征兵士を駅のホームで日の丸を振って送り、「肩を並べて兄さんと今日も学校へ行けるのは兵隊さんのお蔭です」という歌を歌い、「百戦百勝」の「皇軍」の戦果に酔い、南京占領万歳の旗行列に参加し、何処かの占領のニュースのある度に地図で探してそこに日の丸を立てて喜んだりしていた。

 南京占領の時には新聞の一面に城壁の上で万歳を叫ぶ「皇軍」の写真が大きく出ていたのを憶えているが、確か大勢の敵兵や便衣隊(軍服を来ていない敵らしき者のをこう呼んだ)を殺したとか、揚子江にあまり多くの屍体が流れ、それがスクリューに引っかかった船が動かなくなったというクレームが海軍から陸軍にあったというような話も聞いたように思う。

 南京の大虐殺事件が問題になったりするが、規模がどうかという問題ではなく、日本軍が中国の南京を占領した直後にそこで多くの人を殺したという事実が問題なのである。日本人が原爆をいつまでも語り継ぐことは正しい。それならば中国の人たちが南京事件をいつまでも語り継ぐことも正しく認めなければならない。

 戦争が進むとともにに戦死した「英霊」が肩からかけた白い布に包まれた白木の箱で帰って来る姿も見るようにもなったが、元気に戦争から帰って来た兵隊たちも多く見られるようになった。若い帰還兵たちは生還した喜びもあるし、周囲からもおだてられ、自分にとっての非日常的経験であった戦地での話をしたくて仕方がなかったのであろう。子供がいても平気で、戦地での手柄話や女の話を自慢しあっていた。

 日本軍はナポレオンに習ったのかどうかは知らないが、補給を軽視していたようで、兵士の口からも「現地調達」とか「徴発」と言う言葉がよく出ていた。当時はどう言うことなのかはっきり掴めていなかったが、戦地で現地調達ということは占領した土地で物資を略奪して調達することである。当然民家を荒らし、食糧などを調達するとともに、逆らうものは殺し、女を強姦することにも繋がりやすかったのであろう。

  帰還兵の自慢話で多かったのはを女の話で、あまりよく聞かされたので、子供だった私が最初に憶えた中国語は「クーニャンライライ」であったことを今でもよく憶えている。

 韓国の慰安婦の問題も騒がれているが、若い兵士たちの欲望を満たすために軍が慰安婦を斡旋し多くの占領地に慰安所があったことは歴史的にも事実であり、将校用と兵隊用は別になっており、新兵などは行列して順番を待たねばならなかったようなことも聞いた。 戦線の拡大とともに急激に増えた軍人の需要に応えるためには、通常の商売女では不足するのは当然で、戦地まで連れて行かねばならないので、かなり強引に集めなければ人数を揃えられなかったであろうことは容易に想像出来る。当時のきびしい軍国主義の社会環境の下での日本の官憲の植民地であった朝鮮人に対する扱い方を知っている者に取っては、問題になっているようなことがなかったとする方が困難な気がする。

 その頃は日常生活の中でも普通に中国人は「チャンコロ」朝鮮人は「チョウセン」または「鮮人」と呼んで、国内の「部落民」と同じように一級下の人間のように見なされていたので、そのことを考えに入れれば、中国や韓国で日本の軍部がどのように横暴に振る舞ったかは、当時軍人だった人たちの話と合わせて、十分想像出来ることである。

  こういう中国での残虐な経験があったからこそ、敗戦直後に先ず飛んだ噂は「アメリカ軍が来たら男は殺され女は強姦されるぞ」ということであったのであろう。

 当時良く聞かされた言葉に上に述べた便衣隊の他、匪賊、馬賊というのもあった。こちらはもっぱら満州などでのことで、奪われた土地を奪回するために襲撃に来た人が匪賊や馬賊とされたようである。

 当時の日本の軍隊は野蛮で、新兵は古参兵に難癖をつけられてはいじめられるのが普通で、「上官の命令は天皇の命令と思え」と理不尽なことにも盲目的に命令に従うように訓練された。占領地で捕虜やそこらの人を適当につれて来て柱に括り付け、銃剣で刺し殺すのを新兵に訓練としてやらしたことなども聞かされた。

 もう少し後になって中学に行くようになると、教練という授業がありその中に銃剣術もあり、敵兵に見立てた藁人形を銃剣で突く訓練をさせられたが、戦争の経験のある下士官から「そんなことでは人は殺せん」と言って銃剣のつき方を何度もやり直されたものであった。

 それはさておき、南京占領の頃だったかと思うが、新聞を賑わした百人切り競争というのがあり、二人の将校がどちらが先に日本刀で敵兵を百人斬るかを競う話であった。もちろん誇張もあったのであろうが、戦意高揚に利用された元の事実はあったのであろう。

 日本では敗戦を終戦といい、この第二次世界大戦も太平洋戦争と言ってアメリカには負けたけれど中国には負けたと思っていない人もいるようだが、連合国に負けたのであり、中国にも負けて降伏したのである。その事実が覆され得ないことをはっきり認識するべきであろう。

 自分が住んでいる所で地上戦が行われたらどんなことになるかは沖縄戦をみればわかる。また植民地の人たちがどのような苦難な道を歩まさされるかは南アフリカなどの歴史でも明らかであろう。

 日本が戦争の被害者だけでなく、主要な加害者であったという歴史的な事実は自虐的だといって避けるのではなく、ドイツにならって積極的に認めて、今後のための歴史の教訓としなければこの国は世界の人々から受け容れて貰えないであろう。